素粒子

とんだ食わせ物だったが、読み終わった。

https://www.amazon.co.jp/素粒子-ちくま文庫-ミシェル-ウエルベック/dp/4480421777

以下ネタバレあり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この小説はハードSFだと聞いて読み始めて、最初の章はそういう予感があって実によかったのだけれど、その後はまじでSF出てこない。まだSF出てこない。まだSF出てこない。おいおいもう終わるぞSF出てこないぞ。なんだよこれ。

それなのに、激しく感動させられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この話の主人公は、父が異なる兄弟だ。
端的に言えば、二人は性的弱者である。
性的に奔放な母から生まれたのだが、
兄のブリュノは醜さから、弟のミシェルは科学に耽溺しすぎてしまうあまり、
異性とうまく付き合うことができない。


ブリュノは幼い頃からずっと性的に受容されず、愛情を受けることもなかった。
(とはいえ、結婚して子供もできるんだけど。妻も子供も愛せず、離婚して孤独になり、性欲だけが暴走していくんだよね。。ここら辺は、結婚できる時点で幸運、みたいな考えのひとには何じゃらほいですけど、公平な視点だと思う。)
性的なコンプレックスから、風俗街に頻繁に出入りし、
ついには、じぶんを性的にも人間的にも認めてくれる女性、クリスチャーヌに出くわす。つかの間の幸福を享受するが、その幸福を維持するためには、自分自身を擦り減らしすぎている。


弟のミシェルには、本来こころを通わせるべき幼馴染(アナベル)がいたのだが、
科学に思考を囚われてしまって、うまくコミュニケーションが取れない。
幼馴染の美女が浮世の男性たちに翻弄されていくのを放置して、水滴の動きか何かに熱中したりしている。中年になってようやく、自分が、誰とも根本的にはコミュニケーションをとれていないことに気がつく。(研究とのかかわりで尊敬する同僚の退職を、ついに一度も飲みに行かなかったなぁ、と思いつつ見送るシーンはすごい良かった)
そうして、ようやく"男どもに玩具みたいにされた"幼馴染と一緒にいることを決意するのだが、やはり、もうそこには「愛」というよりは「代償行為」のような関係しか残らない。
最後は孤島でひとり、大きな研究成果を残して自殺する。

 

 


ミシェルとアナベルの関係は、

まるで「私を離さないで」のワンシーンみたいな雰囲気だった。

あーいう、
結ばれたのに満たされない男女の表現って、なんていうんだろうね。
鬱々としている自分には、透明感あって謎のヒーリング効果あるね。

 

 

 

 

 

 


結局のところ、二人は人生において「愛」を知ることがなかったのだ。

 

 

 

といった趣旨のことが書かれているが、彼らを叙述する文章の力強さは、けっして二人に失望していない。

 

 

「愛」を知ることは無かった。

 

だけれども、だからこそ、その人の人生は祝福されるべきだ。人生はいとおしいのだと。1回しかない人生に対して、苦悶し続けるその姿は、生きていることそのものだ。ウェルベックはそう言っている。

 

 


物語の中盤にユートピアについてを兄弟が議論していて、
ハクスレーとか、トマス・モアとかに関する(ウェルベックの)論が展開されるんだけれど、本当に素晴らしい。「我々が肉体的な死から逃れることができない」「代償として、愛は残酷なものとなる」

ブリュノとミシェルが語り合う様は、動物性と合理性が見事に溶け合っていて、感覚を揺さぶられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず、この本は、素粒子レベルの現象が、人間の意識を決定しているという超スリリングハードSFでは無いんだということを納得するために書いた。ハードSFではなく、人生を愛していない人々に贈る、その傷ついた勇気への賛歌でした。

付加価値とMarket Capと投機

【注】頭の整理のためにポエムを書いているので、読みやすさや論理の繋がりは、まったく重視していない。

 

 

ヤフー安宅さんの講演を聞いていたら、

現代は、確定した付加価値よりも、Market cap、「未来に生み出されるであろう価値」によって富が生み出されていると言っておられた。

 

以前、自分自身が技術ベンチャーにたまたま関わってしまったことがあって、よくわかる。ろくに利益が出ていない段階なのに、将来的にそこに市場がありそうだという雰囲気と、創業者の熱意と行動力によって、ガンガンお金が引っ張ってこれる。

 

まず、冷静な感覚として、なんだか怖い。例えば、本の執筆を業として営むとする。10万部売れるコンテンツは、本当に一握りだ。にもかかわらず、本が1冊1000円だとして、印税率10%だとすると、10万部売っても、たかだか1000万円の利益にしかならない。執筆事業によって、付加価値を生み出すというのは、何冊も本を書き続けて、たまにあたりを引いて、、ひどく大変なことなのだ。

 

一方で、VCから得られる投資金額(そのままMarket capに反映される)は、この実感から乖離している。だから怖いのだ。

資本家を納得させられるような技術的な根拠、未来を語りそれに共感させる力、そして時流。「まだ、何かを生み出したわけでもないのに」お金が入ってくる。もちろん、この時価総額は、何かを生み出すために拠出された資金であるし、お金を受け入れるほど事業に制約が課されると考えるべきだが、それは創業者側の見方である。単に企業を外から見た場合、会計上の「会社の価値」は投資を受けた途端に膨らむ。

 

時価総額という言葉は、Tech系の会社にとって、利益や資産の反映になっているだろうか?いや、ちがう。Magic Leapは、製品すら市場に出ていない状態で、えげつない額の時価総額(2016年秋には約5000億円)になった。「こんな金額を、売り上げとして出すには、何年かかるというんだ。」安宅さんはTeslaを例に挙げておられたけれど、たしかに売っている車の台数が、TOYOTAとは全然違うよね。

 

未来への期待により、富が集まり、その富によって預言を叶えるように(もちろん多くはかなえられない)、世の中に変容をもたらしていく。

 

世界的な金余りによって、「新興国市場にお金を投入して、人口が増大する力に合わせて付加価値を回収していくゲーム」から「妄想にお金を投入して、預言成就をさせる"過程"で、富を生み出すゲーム」に確実にシフトしていて、いまやその先が見え始めている。

 

安宅さんがポロっとこぼしていたんだけど、付加価値とMarket Capと投機、って言っておられたように思う。

 

 

よく考えよう。資本主義的には、

 

 

「お金はお金を生みさえすればよい」

 

 

付加価値への投資はしつくされた。Marcket capへの投資すら、食いつくされつつある。セラノスみたいな「謎ユニコーン企業」ができてしまうのは、お金が全然流動してないからだ。技術的根拠が薄弱な企業が巨大な時価総額を記録してしまう時点で、「未来を変えうる」というお題目、妄想への投資も、消費しつくされてしまったというサインなのではないだろうか。技術的な観点や未来を変える妄想ではなく、、VCのみんなが投資しているんだから安心に違いない、という心理が、ユニコーン企業を生み出している。

 

今後生じるのは、投機による、お金の流れの増大。なんだか漠然とした将来への期待感とブランドによるテンションの集中だけがあって、短期的な利益を求めてぐるぐるぐるぐるお金がやり取りされて、富が出現する。

 

 

暗号通貨の盛り上がり、インターネットによるシェアリングエコノミーの盛り上がり、AIの盛り上がり、、、

 

 

なんだか共通点が見えてきている気がする。

これからは、投機が投資を呼び、投資が付加価値を呼ぶ時代なのかもしれない。

 

お金が余っていて、人口増大のピークアウトが見え、採掘されるべき資源も採掘しつくした現在、資本主義は我々の妄想を食って生きていくしかなくなる。

 

 

ろくでもない時代だし、未来を変えたい人間たちにとって、舞台は整ったとも言える。

しあわせの構造

Googleで検索すると、多くの知識にアクセスできる。ぼくは、少し前までは、検索して得た多くの知識を総合した結果、より”客観的”な事実に到達できると思っていた。

けれど、いまはそう思っていない。

 

信じたいものを信じる時代における情報提供について考える - Edelmanedelman.jp

 

人間は信じたいものを信じる。

そして、信じたいものを発見するために、Googleを利用する。

 

5人のうち2人が「事実はさほど重要ではない」と回答し、65%の回答者が自分と意見が合わない人々や組織のことを聞かない、64%が重要な社会的問題に関する自分の見解を変えないもしくはめったに変えないとの結果がでており、グローバルよりも人々の意見や考え方が偏りがちであることを示唆しています。

 

上記の記事によれば、嘘が嘘だと分かったとしても、「真実」を見つめずに、自分が信じたいものを肯定してくれる情報を、人間は見続けるという。

 

 

ぼくは、発明的でありたいから、「発明的な情報」を発見しているのだ。たぶん。

あぁ、なんと恐ろしい。

 

 

自分が信じたいものを信じて、それを支えてくれる情報に満たされているインターネットというのは、なんとも慈愛に満ち溢れていることか。

 

最近考察しつづけてきたことをシンプルにまとめると、

 

 

しあわせの構造とは、自分が納得感を持てる情報/状態を、納得できる経路で手に入れて、それを脅かされない、ということによって発生する。

 

ということだ。

 

終焉を迎えつつある近代の価値観で例えるならば、

  

自分が納得感の持てる状態=結婚

納得できる経路=恋愛

それを脅かされない=正社員

 

みたいな感じだろうか。

ほかにも、行動第一に考え、たのしそうに生きる人であれば、

 

自分が納得感の持てる状態=自分で見聞きした情報を信じて行動するスタンス

納得できる経路=「自分が」動いて身に着けてきたスキルやら体験

それを脅かされない=「自分が体験した」こと以外には健全な疑問を持つ

 

 

anti-原発運動であれば、

 

自分が納得感の持てる情報=原発は危険

納得できる経路=Google検索

それを脅かされない=同じ意見の仲間との共感

 

 

 

 

SEOの先にこんな世界があるなんて気がつかなかった。 

ぼくにとって、Google検索は情報収集の一部にすぎないから、Googleに書いているだけだとまだ「納得感」が得られないが、きっと書籍までぼくの情報検索に最適化されてしまったら、きっと「真実」を感じ始めるだろう。別の人々にとっては、"ググった"という事実によって、「納得できる経路」を通っていて、その情報を信じる準備はできているのだ。彼らにとって、移民を排斥すれば自分の給与が上がるという情報が、この世の真実。

 

 

しあわせという構造は、比較の否定により強固になる。すなわち、情報の比較を断ち切ることによって、しあわせは発生する。SNSには、自分と同意見のbotや、自分と共感できる人々が溢れていて、容易に「共感」を生み出す機能がある。「共感」を強めて行けば、他の世界は見ないで済む。比較の否定である。

 

 

 

 

Post Truthの時代というのは、衆愚の世界といいながら、実のところ、納得感で満ち溢れた幸福な世界への入り口かもしれない。

回転ずしの寿司握りマシーンがいけてる件

昨晩ぼーっと考えていて、通勤バスの中でまとめた内容を投下。
独断と偏見です。

●背景と前提
日本は、団塊ジュニアが子供を産まなかったし、少子高齢だよ。移民、反対!の国民性だよ。
現在のサービスを維持するには、労働力は不足しているよ。どこも人不足だよ。

●予測
シナリオ1:サービスをあきらめる
シナリオ2:サービスをあきらめない
シナリオ2-1:移民を使う→日本国民はこのオプションを取れない
シナリオ2-1:移民使わないで労働力を生み出す手段→ クラウドソーシング(ファブレス) or AI+ロボットしかない

付記、
移民が多い海外だと、ロボット化は、移民の仕事を奪うことにもつながるので、人権問題にも発展してしまう「優しくない解決手段」らしい。
(イギリスとかは移民をこれ以上入れないためにも、ロボット化をしないと!という流れ?みたいだ。)

製品の組み立てなどは海外の工場でやればいいが、
飲食店、店舗型の小売店、運送業者、インフラ維持、介護、セキュリティなど、「現場でサービスを提供しないと意味がない業態」であれば、
AI+ロボット or 現地サービスを諦めてネット(or VR)、以外によい解決手段が見当たらない。

●妄想
日本は、移民問題が無い(移民をそもそも入れたくない)から、ロボット化は加速しうる要素が揃っている。
もう色々予兆は現れていて、例えばワンオペ問題は確実に「人不足」の証左だと思う。
日本の場合、時短勤務したい女性や、高齢の男性が、フルタイムで働ける男性と同じ環境で働く文化が無いのも、ロボット化を助長する。

要素が複雑に絡み合っているけれど、
・お金が無くて自動化しえない(中山間地のインフラなど)
・実はサービス過剰(夜中のコンビニ)
とかは、自動化されずに、むしろなくなる。
上記のシナリオ1に入るサービスは結構多い。
タイとか海外と比べると日本は街がきれいすぎるしサービスが多すぎる。どこまでサービスが減らせるかは、実験として興味深い。
常にファーストクラスで旅行していた人は、基準を下げられないとよく言うよね。
綺麗な街、日本は、清掃からレストランの給仕まで、全て自動化のチャンスがあるのかもいしれない。


ぼくの業界に限っていえば、単年度制の予算だと、ハッキリ言ってまだロボットにお金を投資できない。
1年間で言えば、アルバイトやパートを雇うほうがロボットよりずっと安いからだ。
しかも、メンタル的な意味で、職場の雰囲気をよくする人を雇えたら、ロボットには無いプレミアムがつく。
ぼくの業界は日本人的な閉鎖性があり、家族経営の幻想をまだ抱いていて、ロボットよりも人間を、という観点になるのも一因だ。


現状を冷静に考えるなら、この数年のことを考えれば、
ロボットは高コストだし、自動化しても利益が得られる仕事は限られる。
やっぱZOZOTOWNのような、ニーズに確実に合うネット系サービスが、少子高齢化を支える本命となるだろう。

それでも、5年単位で言えば、次々と人手不足で破たんするだろうから、ロボット化の可能性は極めて高い。
まっさきに思いつくのは、
1.ロボットのコスト高を金融で解決
2.ロボットのお金あたりの性能をAI or 水平分業化で、きちんと低コストに抑える
3.ロボットを導入する際の心理的ストレス(寂しいとか)の低減
をできれば良いんだろう。当たり前の結論に落ち着いてしまった。


●結論
回転ずしの、寿司握りマシーンはいけてる。
ぼくは、ヒラメとタイが好きです。

なすべきことをなして 激しく後悔した青年が 自殺した件について

最近、祖父が死んだ。結構、長いこと生きた。

祖父の棺を持ち上げて、教会の外に運ぶのを手伝った。

祖父はクリスチャンだった。


クリスチャンだったけれど、死ぬ老人が多い東京では、火葬場が空いてない。

蓮の花と仏像が供えられた火葬場で、祖父は骨だけの姿に変わり、壺の中に入った。なぜかそれでも、壺が大きいせいか、存在感はあった。




祖父母の家にもどり、葬儀の後片付けをした。存在感のある壺、祖父は、いつも彼のベッドがあった場所に収まっていた。

そんなときに、ぽつりと祖母が言った。

「ユダは、救われたと思う?」

我々一族は、クリスチャンが多い。僕はちがうけれど、付き合いでミサには何度もいったから、ストーリーは知っている。




ユダは師匠であるイエス・キリストに「汝、なすべきをなせ」(とかなんとか)と言われ

いわれるままに、銀貨と交換に、キリストを売り、キリストが十字架にかけられるきっかけを作った。

そして、のちに自分のしたことを、激しく後悔し、首つり自殺をした青年だ。



なぜ、祖母がそんな話をいまするのか?全くよくわからないままに、思いつくままに応えた、

「神の代理人に言われたからこそ、なすべきをなしておったのに、それで神に救われないんだとしたら、だいぶん神様はひどいやつだ」と。


祖母は、肯定するでも否定するでもなく、

ユダは裏切りもの、ということになっているけれど、「ユダが裏切った」という記述は聖書にない。

ユダは、単に、「キリストを次の人に引き渡した」としか書いていない。

という趣旨のことを話した。


神の愛はユダにも開かれていて、ユダはたまたま、イエスを十字架に連れていくきっかけをつくる役回りだっただけだということだ。

彼はそのあと、自分のしたことを嘆き、自殺をする。

キリスト教では自殺はご法度とされている。

自殺は裏切り者が行う行為だから。裏切り者=自殺した人間=ユダ → 自殺はあかん。



さて、ここで会話は終わってしまったのだが、結局のところ、祖母の意図がよくわからなかった。

祖父はユダだったのだろうか?

祖母がユダだっただろうか?

。。



思い当たる点がひとつある。




被介護者の生と死は、本人の病状がある閾値を超え始めると、手続きそのものになる。

病院に対して、ある種の希望を伝えければ、それで祖父は死んでしまうのだ。



「延命措置を続けますか?」



イエス と答えないと、すぐに死はやってくる。

祖父の場合は、我々がノーと言ったわけではなく、祖父の病状がたまたま許さず、延命措置ができなくなった。

けれども、祖父の状態は、一定時期以降は、点滴と薬の積分値のように見えるところがあって、

毎日摂取するカロリーと、祖父の生命活動を表すパラメータは、あと何日生きるかさえ、かなりの精度で予言できてしまっていた。



なすべきことを淡々となして、その結果、祖父は死んでしまった。



キリスト教では、死は永遠の命の始まりであり、特に嘆くことではない。

父の国に、いくだけだから。

たしか、イエス・キリスト本人も、磔死に際して、弟子たちに「悲しむことはない」とか言ったはずだ。

「お悔やみ、愁傷、冥福」ではないらしく、葬儀では僕は何て言っていいかわからなかった。

讃美歌をみんなで歌うお葬式で、思ってた以上に明るい葬儀だった。



父の国に無事送り出すことに成功した、冥福を祈ることを禁じられた人々に生じるものは何だろう?

哲学、というともっともらしいけれど、凡人的にはやっぱり何かの感情に飲まれたい気もする。

ひょっとすると、「後悔」とか?

「なすべきをなさなかった後悔」そして、「なすべきことを、なしてしまったことの後悔」ではないだろうか。

後悔が最大級におしおせてしまったユダは、自殺をしてしまった。

責められるいわれはないんじゃないか?やっぱり。

みな、なすべきことをなしている、この世でいきるために。


残されたものはみな、ユダではないか。



祖父を死に連れていく役回りだっただけで、めぐりあわせが違えば、役は入れ替わっていたかもしれない。

現実は、僕は見送る側をやったにすぎない。今回は。



祖父自身が自らの死期を存分に理解しており、僕も、祖父がもう次の週には生きてないであろうことを知っていながら、

「元気で」という分かれ言葉で病室を後にしたことを、何度か思い出すこの感覚は、後悔というべきか否かを考えながら書いた。


何度も言うが僕はキリスト教徒ではなく、てきとうな人間なので「後悔なんか、あるわけなく」「冥福を祈り」、筆をおくことにする。

壺になったじーちゃん。また正月に会いましょう。

バケモノの子 感想 チコというキャラは「実在」しない件

バケモノの子細田守の最高傑作である。
興奮冷めやらぬうちに、文章にしようと思い立った。

ネタバレ前提で文章を書きます。
















さて、ぼくは細田守の最高傑作は時をかける少女だと思ってきたのだが、バケモノの子はそれ以上だった。


予定調和的な、バトルの結果。
どこか既視感のある師弟関係。
ありがちな物語の構成。
テンプレなヒロイン。
説明が多すぎなセリフ。
映画の全編を通して、ほとんど、「どこかで見たことがある」と思えるシーンばかりだ。
けれど、そんなのどーでもいいのです。

そもそも、主人公の「蓮」という名前は、平成の名前ランクキングで常に上位の「平凡な名前」なのだ。「平凡な物語」の象徴だ。
平凡なんだけれど、人類が求めつづけてやまないものが、とても美しく表現されている。
とくに、ラストでチコがちらっと出てくるシーン。涙が止まらなくなる。


熊徹やクジラについては、みんな言及するだろうから、ぼくは「チコ」というキャラクターについて書こうと思う。
ぼくは、「チコ」の存在が最も明白な形で、この映画が伝えたいものを示していると思うのだ。


チコは、蓮が「ネズミ?」というだけで、説明だらけのこの映画の中で、
生態・生物学的分類が明かされない、謎のモフモフ系マスコットキャラクターである。
チコは一貫して、九太の味方であり、九太の安否を心配し、さらには危険を察知して止めようとする。
生息地は九太の髪の中。人畜無害。マスコットの鑑である。



多くの方は気づいていると思われるが、チコは映画の中で「実在」していない。



なぜか、チコは年を取らない。
本当にネズミならば、九太が十七太になった時点でとっくに寿命は尽きている。
チコが九太以外に関わる描写がほぼない。
チコは、バケモノの世界でも、人間の世界でも、実は九太/蓮にしか認識されていないように見える。
一郎彦のクジラがカメラに映らないように、チコも映っていない。
これらの描写が示しているのはただひとつ。


チコは九太の脳内の産物であり、映画の中でも客観的には、「存在しない」のである。


蓮が生き残るために必要だった、母からの愛情・良心が、脳内で結晶化したもの、それがチコだ。と、ぼくは思う。
"脳内に存在する他人の愛情"を、あえて「ミーム」と呼んでみる。


バケモノの子」という映画は、人間が生きるには誰かから「ミーム」を受け取る必要がある、という超根源的かつ未解決な課題を、鮮やかに描き出しているのだ。



母に比べて、一緒にいる時間をとることができなかった父親は、九太/蓮に対して、何も伝えられていない存在として描かれる。
ミーム」の伝達は、やり直すものではなく、積み上げ続けるものだ。
ミーム」は、外から誰にも見えない。一郎彦は、愛情いっぱいで育ったように見えたが、、、
誰から何を受け取ったのか、受け取れなかったのか、それは他人からは見えない。


唯一の例外が、楓だ。


物語の終盤、九太の心の穴が広がって、チコが吹き飛ばされるときに受け止めるのが、黒髪ショート美少女、楓ちゃんだ。
楓が例外的にチコを知覚できるのは、彼女が九太の最大の理解者であり、「母親のミーム」と同質の何かを与えてくれる存在になることを、暗示している。


一郎彦と対決する九太は、落雷受けた後のエイハブ船長よろしく、死に急ぐ可能性が十分にある、「か弱い」存在だ。
死ぬことばっかり考えている。生物として非常にまずい。
彼を守るには、脳内の存在であるチコでは不十分で、実在する女の子(楓)が「物理的に足を引っ張る」必要がある。
じゃないと死ぬから。

人間は、誰かの「ミーム」を受け取らないと、簡単に死んでしまう。


思い出すのはリードリヒ2世の逸話。
恐ろしい実験…スキンシップの無い赤ちゃんにもたらされたもの | mamanoko(ままのこ)

"リードリヒ2世が本来やろうとした実験は、「言葉を教わらないで育った子供が、どんな言葉を話すのか」疑問を持ったことが始まり。
面倒をみる際、
〇目を見てはいけない
〇笑いかけてもいけない
〇語りかけてもいけない
〇ふれあいを一切してはいけない
と命じたのです。 "
"しかし、しっかりとミルクは与えて、お風呂も入りもちろん排泄の処理もする。生きるのに必要なことはすべて与えるのです。 "
"その実験の結果は恐ろしいものでした。
子供達は、全員が1歳の誕生日を迎えることなく誰一人として育たなかったそうです。愛情を示してもらえず、言葉もかけてもらえず全員が死んでしまったそうです。 "



言葉をかけてもらえないと、物理的に健全な環境で育ったとしても、赤ん坊は死んでしまうという。
人類は脳の生き物であり、「ミーム」を他者から摂取/他者に付与しないと、正常に動作しない動物であることがいつか証明されるんじゃないだろうか。


母親が死んでしまい、人とのかかわりが希薄になった蓮にとって、母から受けた愛情だけが、「現実」に彼をつなぎとめていたに違いない。
渋谷の路地裏で、蓮は九死に一生を得ていたのだ。もうこの世にはいない、母のおかげで。


熊徹が「心の剣」となり、九太へとインストールされるシーンは、
母親がかつて「チコ」となり、蓮の心に住み着いたシーンの壮大な焼き増しなんだと思う。


母親と父親(血はつながっていなくとも)、「ミーム」を受け取れた九太は幸運なのだ。

「穴」がある程度ふさがっていて、正常に動作している人間と、
「穴がぽっかり」で動作に不具合がある人間、
その違いは、あるべきタイミングで出会うべき人に出会え、適切な時間を過ごせたかどうか、という運だけだ。


九太は、一郎彦を見捨てない。
楓も、一郎彦を、胸を張って叱る。
同じ人間だからこそ、叱れるのだ。
自分は単に幸運だっただけだ、と知っているから。


人間は、人間が飽きることなく求め続けるもの、そして与え続けるものは、「愛情」である。
バケモノの子」は、「チコ」という、母から与えられた「愛情」でこの世にギリギリの生を維持できて、熊徹との邂逅という幸運をつかんだ少年の素敵な物語である。
すばらしい映画でした。

パクりパクられて創るのさ

僕はほぼ日Pの「パクりパクられて創るのさ」という曲が大好きだ.
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11591612

パクリ曲だらけと言われているオザケンを「パクった」曲をつくり,
ゆのみPのトレス疑惑にファビョるやつらを皮肉って痛快に批判するとともに
「創造」という行為の本質をえぐっていると思うから.


”比べてみたら足がつくような パクリをするのは所詮素人
 憐れむくらいで そっとしてあげて”

”意図的なパクリはもっと巧妙 三度上げたり単調にしたり
 譜割を変えたり 足したり引いたり”


この曲にはパクリの素人とパクリの玄人しか出てこない.
そして,パクリの玄人の作品は「パクった」ことを観客に感じさせないし,バレもしないのだそうだ.



僕は創造的行為をする人は二種類しか存在しないと思っている.
パクリの素人 または パクリの玄人.
「オリジナリティ」とかいう虚妄に騙されちゃだめだ.

「オリジナリティがない」

それは,パクリの玄人が自分の地位を守るために使う方便だ.
競争相手は少ない方がいい.


宮崎駿の「となりのトトロ」の元ネタは「三匹ヤギのがらがらどん」なんだそうだ.
横井軍平はゲームの「十字キー」を「ジョイスティック」をまねて発明した.
凄いことだと思う.これぞパクリの玄人.である.
「大勢のパクリの素人軍団」に選抜がかかって,成長して「パクリの玄人」ばかりが目につくようになったのが今の日本だ.


中国や韓国が他人の作品・製品をパクリまくってると豪語する日本人が多いけれど,それは自分たちも利用した「創造の本質」を忘れすぎだと思う.藤子不二雄の初期の作品なんて手塚治虫まるパクリだし,手塚治虫はディズニーと洋画,アヴァンギャルドのパクリだ.「強烈なパクリの玄人」は「大勢のパクリの素人」から選抜され,成長し生まれてくるのだ.面白いものに厳しい客の前では,強烈な自然淘汰が働くわけだから.


トレースだのパクリだのと言って他人の創造物をdisっている場合じゃないと思う.


”どんな人だって無から有は作れはしないし”

”お互い様ってパクリパクられて生きていくのさ”


今の日本は二次創作の文化があるのが救いだが,
自分でトレースする気もない連中が「あいつの作品はパクリだ」とかいって将来の「パクリの玄人」候補をつぶしている日本の現状は,割と末期的な気がしている.


エジソンはスワンの電球をパクった.
ワットの蒸気機関はニューメコンのパクりだ.
アインシュタイン相対性理論ポアンカレのパクリだ.
やつらはパクリの玄人だ.


オリジナリティ?個性的な自分??
敢えて言うなら,他人の線をトレースする際の「手振れ」.それがオリジナリティだ.


創造的行為は,何か才能のある人間の特権ではない.
「所詮素人」なパクリから,すべてがはじまる.