バケモノの子 感想 チコというキャラは「実在」しない件

バケモノの子は細田守の最高傑作である。
興奮冷めやらぬうちに、文章にしようと思い立った。

ネタバレ前提で文章を書きます。
















さて、ぼくは細田守の最高傑作は時をかける少女だと思ってきたのだが、バケモノの子はそれ以上だった。


予定調和的な、バトルの結果。
どこか既視感のある師弟関係。
ありがちな物語の構成。
テンプレなヒロイン。
説明が多すぎなセリフ。
映画の全編を通して、ほとんど、「どこかで見たことがある」と思えるシーンばかりだ。
けれど、そんなのどーでもいいのです。

そもそも、主人公の「蓮」という名前は、平成の名前ランクキングで常に上位の「平凡な名前」なのだ。「平凡な物語」の象徴だ。
平凡なんだけれど、人類が求めつづけてやまないものが、とても美しく表現されている。
とくに、ラストでチコがちらっと出てくるシーン。涙が止まらなくなる。


熊徹やクジラについては、みんな言及するだろうから、ぼくは「チコ」というキャラクターについて書こうと思う。
ぼくは、「チコ」の存在が最も明白な形で、この映画が伝えたいものを示していると思うのだ。


チコは、蓮が「ネズミ?」というだけで、説明だらけのこの映画の中で、
生態・生物学的分類が明かされない、謎のモフモフ系マスコットキャラクターである。
チコは一貫して、九太の味方であり、九太の安否を心配し、さらには危険を察知して止めようとする。
生息地は九太の髪の中。人畜無害。マスコットの鑑である。



多くの方は気づいていると思われるが、チコは映画の中でおそらく「実在」していない。



なぜか、チコは年を取らない。
本当にネズミならば、九太が十七太になった時点でとっくに寿命は尽きている。
チコが九太以外に関わる描写がほぼない。
チコは、バケモノの世界でも、人間の世界でも、九太/蓮にしか認識されていないように見える。
一郎彦のクジラがカメラに映らないように、チコも映っていないようにぼくには見えた。
これらの描写が示しているのはただひとつ。


チコは九太の脳内の産物であり、映画の中でも客観的には、「存在しない」のである。


蓮が生き残るために必要だった、母からの愛情・良心が、脳内で結晶化したもの、それがチコだ。と、ぼくは思う。
"脳内に存在する他人の愛情"を、「ミーム」と呼んでみる。


「バケモノの子」という映画は、人間が生きるには誰かから「ミーム」を受け取る必要がある、という超根源的かつ未解決な課題を、鮮やかに描き出しているのだ。



母に比べて、一緒にいる時間をとることができなかった父親は、九太/蓮に対して、何も伝えられていない存在として描かれる。
ミーム」の伝達は、やり直すものではなく、積み上げ続けるものだ。
ミーム」は、外から誰にも見えない。一郎彦は、愛情いっぱいで育ったように見えたが、、、
誰から何を受け取ったのか、受け取れなかったのか、それは他人からは見えない。


唯一の例外が、楓だ。


物語の終盤、九太の心の穴が広がって、チコが吹き飛ばされるときに受け止めるのが、黒髪ショート美少女、楓ちゃんだ。
楓が例外的にチコを知覚できるのは、彼女が九太の最大の理解者であり、「母親のミーム」と同質の何かを与えてくれる存在になることを、暗示している。


一郎彦と対決する九太は、落雷受けた後のエイハブ船長よろしく、死に急ぐ可能性が十分にある、「か弱い」存在だ。
死ぬことばっかり考えている。生物として非常にまずい。
彼を守るには、脳内の存在であるチコでは不十分で、実在する女の子(楓)が「物理的に足を引っ張る」必要がある。
じゃないと死ぬから。

人間は、誰かの「ミーム」を受け取らないと、簡単に死んでしまう。


思い出すのはリードリヒ2世の逸話。
赤ちゃんとのスキンシップの効果とは?遊びや歌で赤ちゃんと触れ合おう! | ままのて

"リードリヒ2世が本来やろうとした実験は、「言葉を教わらないで育った子供が、どんな言葉を話すのか」疑問を持ったことが始まり。
面倒をみる際、
〇目を見てはいけない
〇笑いかけてもいけない
〇語りかけてもいけない
〇ふれあいを一切してはいけない
と命じたのです。 "
"しかし、しっかりとミルクは与えて、お風呂も入りもちろん排泄の処理もする。生きるのに必要なことはすべて与えるのです。 "
"その実験の結果は恐ろしいものでした。
子供達は、全員が1歳の誕生日を迎えることなく誰一人として育たなかったそうです。愛情を示してもらえず、言葉もかけてもらえず全員が死んでしまったそうです。 "



言葉をかけてもらえないと、物理的に健全な環境で育ったとしても、赤ん坊は死んでしまうという。
人類は脳の生き物であり、「ミーム」を他者から摂取/他者に付与しないと、正常に動作しない動物であることがいつか証明されるんじゃないだろうか。


母親が死んでしまい、人とのかかわりが希薄になった蓮にとって、母から受けた愛情だけが、「現実」に彼をつなぎとめていたに違いない。
渋谷の路地裏で、蓮は九死に一生を得ていたのだ。もうこの世にはいない、母のおかげで。


熊徹が「心の剣」となり、九太へとインストールされるシーンは、
母親がかつて「チコ」となり、蓮の心に住み着いたシーンの壮大な焼き増しなんだと思う。


母親と父親(血はつながっていなくとも)、「ミーム」を受け取れた九太は幸運なのだ。

「穴」がある程度ふさがっていて、正常に動作している人間と、
「穴がぽっかり」で動作に不具合がある人間、
その違いは、あるべきタイミングで出会うべき人に出会え、適切な時間を過ごせたかどうか、という運だけだ。


九太は、一郎彦を見捨てない。
楓も、一郎彦を、胸を張って叱る。
同じ人間だからこそ、叱れるのだ。
自分は単に幸運だっただけだ、と知っているから。


人間は、人間が飽きることなく求め続けるもの、そして与え続けるものは、「愛情」である。
「バケモノの子」は、「チコ」という、母から与えられた「愛情」でこの世にギリギリの生を維持できて、熊徹との邂逅という幸運をつかんだ少年の素敵な物語である。
すばらしい映画でした。

パクりパクられて創るのさ

僕はほぼ日Pの「パクりパクられて創るのさ」という曲が大好きだ.
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11591612

パクリ曲だらけと言われているオザケンを「パクった」曲をつくり,
ゆのみPのトレス疑惑にファビョるやつらを皮肉って痛快に批判するとともに
「創造」という行為の本質をえぐっていると思うから.


”比べてみたら足がつくような パクリをするのは所詮素人
 憐れむくらいで そっとしてあげて”

”意図的なパクリはもっと巧妙 三度上げたり単調にしたり
 譜割を変えたり 足したり引いたり”


この曲にはパクリの素人とパクリの玄人しか出てこない.
そして,パクリの玄人の作品は「パクった」ことを観客に感じさせないし,バレもしないのだそうだ.



僕は創造的行為をする人は二種類しか存在しないと思っている.
パクリの素人 または パクリの玄人.
「オリジナリティ」とかいう虚妄に騙されちゃだめだ.

「オリジナリティがない」

それは,パクリの玄人が自分の地位を守るために使う方便だ.
競争相手は少ない方がいい.


宮崎駿の「となりのトトロ」の元ネタは「三匹ヤギのがらがらどん」なんだそうだ.
横井軍平はゲームの「十字キー」を「ジョイスティック」をまねて発明した.
凄いことだと思う.これぞパクリの玄人.である.
「大勢のパクリの素人軍団」に選抜がかかって,成長して「パクリの玄人」ばかりが目につくようになったのが今の日本だ.


中国や韓国が他人の作品・製品をパクリまくってると豪語する日本人が多いけれど,それは自分たちも利用した「創造の本質」を忘れすぎだと思う.藤子不二雄の初期の作品なんて手塚治虫まるパクリだし,手塚治虫はディズニーと洋画,アヴァンギャルドのパクリだ.「強烈なパクリの玄人」は「大勢のパクリの素人」から選抜され,成長し生まれてくるのだ.面白いものに厳しい客の前では,強烈な自然淘汰が働くわけだから.


トレースだのパクリだのと言って他人の創造物をdisっている場合じゃないと思う.


”どんな人だって無から有は作れはしないし”

”お互い様ってパクリパクられて生きていくのさ”


今の日本は二次創作の文化があるのが救いだが,
自分でトレースする気もない連中が「あいつの作品はパクリだ」とかいって将来の「パクリの玄人」候補をつぶしている日本の現状は,割と末期的な気がしている.


エジソンはスワンの電球をパクった.
ワットの蒸気機関はニューメコンのパクりだ.
アインシュタイン相対性理論ポアンカレのパクリだ.
やつらはパクリの玄人だ.


オリジナリティ?個性的な自分??
敢えて言うなら,他人の線をトレースする際の「手振れ」.それがオリジナリティだ.


創造的行為は,何か才能のある人間の特権ではない.
「所詮素人」なパクリから,すべてがはじまる.

ミートソーススパゲッティ(隠し味マツタケ)は成立するか?

ある方が「料理をすることは良い発明のトレーニングになる」と言ってくれているので,ちょっと実践している.

んなこといっても,僕は料理大好きマンでもないので,
素材は安いものを使ったり,レトルトと缶詰を混ぜてみたり,そういう簡単な料理しかしていないんだけども.


職場の食堂にも飽きたし,職場や自宅の周辺のお店にも飽きてきたところだったので
自炊をするのは案外楽しいなぁと思った.料理することが楽しいというよりは飯が純粋に美味い.
下手なりに作っても,いつもと違う飯が食えるのはそれだけで楽しいもんだ.


ところで「料理をすることは良い発明のトレーニングになる」という命題については,ちょっと修行不足だ.


僕の料理は
「パスタに塩を振らなくてもええやろ」とか
「調味料ないし醤油でええやろ」とか
どちらかというとスペックを下げる方向に思考回路を使っている.
もちろん「代替手段を考える」という訓練になっているのかもしれないが,
実際ちゃんとやったときに比べて同じ美味さが出せているのか微妙だ...


基本的に発明というのは,ハイテクを使うことが分かりやすくブレイクスルーを作るので,思考回路としては
「どのプロセス・材料をハイテク化したときに解決しえなかった課題がうまく解決するか」
みたいなことをやる.(一例だ,もちろん課題を発掘するのが重要だから)
これを料理に当てはめるのであれば,

ミートソーススパゲッティ×マツタケだアルデンテの状態が長時間維持されたとか,
味噌汁にトリュフ入れたらトウフより格段にうまかった

とかそういうものが求められているきがする・・・.大変だ.そんなことにチャレンジしたら,速攻心が折れてしまいそうだ.
高いお金を払ってまでまずい飯を食いたくはないので,しばらくは「代替手段」的思考回路の訓練(別名,ずぼら)をしながら料理の腕を磨くことに専念しようかな.


内容ね―なぁ今回のエントリは.

僕らが暇をつぶすために必要な魔術

基本的に,日本にいて最低限の生活ができている人たちは不況だろうが好景気だろうが「暇つぶし」のために生きている.
※暇つぶし=自分の衣食住・安全・健康に本来関係のない需要/供給を生み出して経済を回すこと.


実務レベルで見ると本当に色々な暇つぶしが存在するが
最も人気かつ有効な暇つぶしの一つに「幻想に浸る」ということがある.

例えば動画を観たり,漫画を読んだり,物語を読んだりすることだ.
良い幻想に浸れると人間は昂揚する.ディズニーランドが最たるもので,異世界の極楽浄土を体験できるわけ.


ちなみに僕は暇つぶしが悪いと言っているのではない.
暇つぶしと仕事と遊びの区別なんてつかない世の中にとっくになっていると思う.
一回しかない人生,幻想にたくさん浸ることで,豊かな人生感を持つことができるんだ.


●●●

ところが,面白いことに「幻想に浸る」という時間つぶしは実はけっこう難しい.
人が幻想にちゃんと浸るためには,「これはリアルだ」と脳が勘違いをしないといけないからだ.


脳をだますのは難しい.
すぐに「こんなのありえねーよ」とクールダウンしてしまう.


クールダウンの壁を越えて,見事,脳みそをだますことに成功した作品が「売れる商品」となるのだろう.

●●●



では,脳をだますために必要なことをはなんなのか?
僕なりの抽象度の高い答えを述べると「非現実と現実の両立」である.


1.人間は「ありふれたこと」には興味がなくて「自分にとって希少性があり価値の高いもの」に興味を持つ
2.人間は自分が実現可能な課題には集中できるが,自分に理解不能・実現不可能な課題には集中できない


細かい説明は省くが,この二つは人間の行動原理だと僕は思う.



この二つについては,現実に人生をプレイすると,大概どちらかが欠けていることに気づく.希少価値がない地道な作業をするか,希少価値があるものをいきなり求めて空中分解して集中力を無くすか.現実はなかなかクリアしにくい.


1.と2.が同時にみたされている,納得性の高い世界.それがファンタジーの世界であり,人間が憧れる幻想の世界である.



ファンタジーを作る人たちに課せられた使命は,お客の脳の中で1.と2.をどうやって両立させるか,だ.


たぶん,1.(価値が高いもの)っていうものは実際のところ時代によってあまり変化していないはずだ.
・強敵に勝つ
・王子様・お姫様と結婚する
・世界を救う
ポケモンマスターになる
・大金持ちになって大成功する
・真の愛に触れる
いつの時代も,達成できる人はごくわずかだろう.


問題は2.である.希少価値の高いものをどうやったら「納得のいく課題」に落とし込むことができるのか??


読み手はある時代に生きている以上,その時代時代に即した「魔術」の使い方があるはずだ.
不況の時代,個人が生き方を見失う時代に,どんな魔術が有効なんだろうか.
書くのも疲れてきたし,僕の大好きな言葉を引用して終わろう.


Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic Arthur C. Clarke


日本人が挨拶みたいに「日本disり」をするメリット

僕の周りだけかもしれないけど,

今は日本の話をしてないでしょって時に,したり顔で日本disりをする人たちが結構いる.

 

「この研究分野はこう熱い!!ところで日本はこれやってないから糞だよね」

みたいな感じ.面白い研究の話からどんどん日本disりになってしまって,日本disりにすごい時間を費やしてることすらある.

 

凄く魅力的なアイデアを語っていた人たちが,

急に紋切り型の日本disりをはじめるとめちゃくちゃ萎える自分がいて,

結局愚痴りたいだけなんじゃないの?と思ってしまったりしていた.

でも,いつも愚痴を言わない人たちも変な文脈で日本disりをすることはよくある.なぜか?

 

それが今日,解決した.

 

 

結論は「いつだって 圧勝したいんだ 僕たちは」

 

実は「紋切り型の日本disり」で起こっている出来事はいろいろなケースに適応可能な普遍的なパターンを含んでいる.

僕が考えたモデルは下記.

 

1.会話参加者はdisる内容に該当しない(少なくとも該当しないと思ってる)

2.disる内容に全員が共感する

3.disる前後に,参加者に共通する「良いこと」を共有する

 

生じるのは”自己肯定”

これは儀式なのである.例を表にまとめる.

 

  disり対象 共有する内容
音楽詳しい人 メジャーアーティストしか聴かない人 マイナーアーティスト
ノマドワーカー "リスク"をとらない人 おれらの生活スタイル
リア充 ノリ悪い人 ウェーイ
聖人 差別 強欲 貧困 裏切り

   

 

このモデルだと聖人君子の語りも,喫煙所のぐでぐで会話も,同じパターンに分類できる.disるやり方は千差万別で,人格攻撃になっていることもあれば,ジョークみたいなdisりももちろんある.

とにかく,

これらの会話すべてに共通して得られるものを端的に表すと

 「俺らは圧勝している」という感覚である.

 

 かっこ悪い表現で言えば自己肯定感だろう.

 

他人を下げて相対的に自分が上がっている(自分らは該当しないから)+自分らを上げるのだから.かなり圧倒的に自分たちが優位だ.圧勝だ.上記の3つの条件がそろったとき,会話参加者はみな「俺らは圧勝してる」という感じ,自己肯定感に浸れる.

 

全員が互いに肯定し合っている組織では互いを尊重したスムーズなコミュニケーションが成立する.これが儀式の果実だ.

 

自分らはdisらず×他人disる×自分らの価値を共有する

→ 俺ら圧勝しているぜ!という感覚を共有

→ 円滑なコミュニケーション

 

という仕組み.「圧勝儀式」とでもいおうか.

 

 

儀式には犠牲がつきものですが,その時に最も手っ取り早いのは「法人」だったり「国」だったりをdisり対象にすることだ.誰も傷つかない.

だから「典型的日本disり」をするのは円滑なコミュニケーションをするために,かなり汎用性があるやりかたなのだ.さらにいえば,この日本disりは単なる儀式であって,要するに挨拶みたいなものである.

 

なーんだ,みんな,日本が嫌いなわけではなくて,ただ圧勝したいだけだったのだ.

 

この儀式,僕自身はくだんねーなぁと思うことが多々あるんだけど,「圧勝儀式」の考え方を導入すれば,ようやく必要性を理解できる.

 

コミュニケーション・議論に集中するために「儀式」を用いることは,確かに知恵だと思う.「暑いですね,そうですね」の挨拶よりも,「圧勝儀式」を経た場合とそうでない場合と比べれば議論への集中度も違うんじゃないだろうか?

 

僕は「圧勝儀式」をすることが目的になってしまって

徹頭徹尾「圧勝」しまくって会話を終わる人は死んだらいいと思うけど,

楽しいお話のためにも,連帯感のためにも,「適度な圧勝」は重要,というわけだ.

 

人間は何とも面倒な生き物だ.

平沢進という生き方

僕はミュージシャンの平沢進が好きだ.

音楽も,やってることも,キャラの作り方も.ヒラサワの「姿勢」に憧れるのだ.

 

色々好きな部分があるので,一言では表しにくい.

 

彼の姿勢の凄さを説明できるエピソードをひとつ.

 

  

JASRAC

ミュージシャンが著作権の管理,運用,あるいは会計的な作業をやることはとても面倒なので,それらの管理を全て一括でやってくれる団体.

さらにJASRACは音楽をリスナーへ届けるためのパイプ役でもある.

JASRACに登録すれば,自分の曲を普段聞いてくれない人へも,音楽を届けられる可能性があるわけだ.

 

ミュージシャンは音楽を作り演奏する専門家であり,会計士でも知財管理者でも広告屋でもない.

正直,多くのミュージシャンは会計的な作業をするのも,著作権について学ぶことも煩わしいと思ってしまうだろう.

なので,JASRACはミュージシャンにとってとてもありがたい存在だ.

 

ところが,である.

平沢さんはmp3というファイル形式の登場と共に,JASRACから離反してしまう.

 

著作権

・配信システムを含むプロモーション

・資金調達

・ライブシステム

 

これらミュージシャンを構成する要素を自分勝手に自分用に組み立てるということを選択した.

すごくコストのかかることだし,失敗するリスクが大きい.

JASRACの仕組みを使っていれば,著作権違反されても彼らが対処してくれるわけだし,

法律的に難しい会計処理だってあるんだろう.プロモーションだってやってくれる.

それを根本から否定してしまうのは,よっぽどのアイデアがある楽天家かアホかどっちかだと思う.

それでも1999年当時,平沢進JASRACを捨て自分の楽曲のmp3配信へ踏み切った.

たぶん,平沢さんは自分とリスナーの間で作られている信頼関係に賭けたのだろう.

彼の作戦は以下の通り.

 

・二次創作黙認+一部の楽曲を無料提供

・ネット(mp3配信)とファンクラブを使ったプロモーション

・資金調達はナゾ

・ネットを介した在宅リスナー参加型ライブ

 

ITを中心に据えたおかげで,まるで時代を先取りしたような方法になっている.

単にITを好きが幸運をもたらしたようにも見えるが,自立への無理のないプランを立てられているにように思う.普通にやってできることではない.

著作権の仕組みを勉強しただけで,独立を諦めちゃうミュージシャンっていっぱいいると思う.

30代の時間を使ってしたたかに,あきらめず準備をしてきたのだろう.

だいたい,mp3が出たタイミングを利用しているし,リスナーとの絆を十分つくった後なので,ただの中二病JASRACから離脱したわけでは決してないのだ. 

 

ヒラサワが作詞・作曲した曲の中に「Another Day」という曲がある.

JASCRACにどっぷりつかっているP-model時代の曲だが,独白のような部分があって

 

合言葉は「消えちゃいました」 

天候無関係 

距離無関係 

合言葉は「消えちゃいました」 

方向は 仮り 

動機も 仮り 

行く先はここ 

 

とヒラサワは言う.

で,ちょっと前(2007年)に平沢進さんはこちらをセルフカバーして,こんな歌詞に変えた.

 

合言葉は「消去可能」

認証無関係

適合無意味

合言葉は「消去可能」

動機は有り

存在可能

生存可能

存在可能

行く先はここ

 

 

”生存可能”と嘯くヒラサワには,自分の生き方を確立した誇りが確かに感じられる.

 

やるべき目標に向かいつつ,彼のように「生存可能」と胸を張るには

どんな仕組みを組み立てる必要があるだろう?

資金とか言い出すと思うけれど,もっと上位の戦略レベルでの,注意深い検討が必要だ.自分の足で立ちたいと粋がる僕には,平沢進という人物の生き方は,大いに参考になるのでした.

 

 

平沢進twitter @hirasawa

公式HP http://noroom.susumuhirasawa.com/

死なないで生きる方法1

僕の場合,

おぎゃーとこの世に生まれたときから,

安全と食糧,住む場所,着るものが提供されておりました.

 

親もとを離れて生活するようになってからも

基本的に「生存する」ということ自体にはほとんどコストをかけなくていいということに気がつきました.日本は超安全な国.しかも田舎だったら月8万くらいで十分生きていけるし,コンビニの期限切れ食品でも,空きっ腹には十分美味いのでした.

僕は病気をしにくい健康な体を親からもらえた.幸運なことだ.

 

人間には生存本能があるので,安全と衣食住が提供されていなかったら

それを満たすためには必死こいて頑張ります.それが生きる意味です.

 

でも安全と衣食住が提供されている状況にある僕は,次にどうすればよいのでしょうか?

 

正直,もうあとは暇をつぶしですよね.

生まれた段階で「生存」をクリアしてるから.

面白いのが,安全と衣食住の欲求を満たされてて,夢もとりたててなくて,友人もあんまりいないと,僕は割と死にたくなるんですよね.

 

感情論ではなくロジカル点から,生きている意味なんてないので.

生存本能を奪われてしまうと,生きる気をなくすという.

 

そこで,僕が見つけた生きる方法はいくつかあるんだけど.

そのうちの一つは

「マシンになること」

ある目的とサブルーチンを用意しておいて,自分がそれをひたすら実行するbotだと思い込むようにすれば,死ななくてすむ.

 

毎日走るとか,本を読み続けるとか.ブログつけ続けるとか.

できれば解いた時に自分が快楽を得られるような課題であるほうが望ましいけど

快楽って,やってるうちに出てくるものだと思う.

 

ということで,例えば,むっちゃ簡単な課題で構成された,(できれば他人の影響を受けにくい)すっげー解決不可能な目標を準備して,それを達成するためのbotになれば,快楽もオートでついてきて,死なないで生きていけると思います.課題の設定はとても難しいので僕はエラそうなことを言えないけれど.

 

例えば,

「新手を100個出す」を目標にして,「毎日詰将棋をする」を日々の簡単な課題として

それを解いていくbot

 

これのいいところは,botになっている間は,変な考え(死にたいなぁなど)をしないところ.なおかつ,死ぬまでの時間では達成できないような目標を準備するから,寿命をまっとうするまではbotできる.

 

botになってる間は死なない

・寿命をまっとうするまでbotできる

ゆえに,死ぬまで死なない

 

 

生きているのがつらくて,死にたくなったら.

botになってみるのは良いかもしれない.

快楽は後からついてくる.botは苦痛を感じない.死ぬまで,死なない.

 

 

結局,フローの奴隷として生きるしかないんだろうかねぇ.