日本人が挨拶みたいに「日本disり」をするメリット

僕の周りだけかもしれないけど,

今は日本の話をしてないでしょって時に,したり顔で日本disりをする人たちが結構いる.

 

「この研究分野はこう熱い!!ところで日本はこれやってないから糞だよね」

みたいな感じ.面白い研究の話からどんどん日本disりになってしまって,日本disりにすごい時間を費やしてることすらある.

 

凄く魅力的なアイデアを語っていた人たちが,

急に紋切り型の日本disりをはじめるとめちゃくちゃ萎える自分がいて,

結局愚痴りたいだけなんじゃないの?と思ってしまったりしていた.

でも,いつも愚痴を言わない人たちも変な文脈で日本disりをすることはよくある.なぜか?

 

それが今日,解決した.

 

 

結論は「いつだって 圧勝したいんだ 僕たちは」

 

実は「紋切り型の日本disり」で起こっている出来事はいろいろなケースに適応可能な普遍的なパターンを含んでいる.

僕が考えたモデルは下記.

 

1.会話参加者はdisる内容に該当しない(少なくとも該当しないと思ってる)

2.disる内容に全員が共感する

3.disる前後に,参加者に共通する「良いこと」を共有する

 

生じるのは”自己肯定”

これは儀式なのである.例を表にまとめる.

 

  disり対象 共有する内容
音楽詳しい人 メジャーアーティストしか聴かない人 マイナーアーティスト
ノマドワーカー "リスク"をとらない人 おれらの生活スタイル
リア充 ノリ悪い人 ウェーイ
聖人 差別 強欲 貧困 裏切り

   

 

このモデルだと聖人君子の語りも,喫煙所のぐでぐで会話も,同じパターンに分類できる.disるやり方は千差万別で,人格攻撃になっていることもあれば,ジョークみたいなdisりももちろんある.

とにかく,

これらの会話すべてに共通して得られるものを端的に表すと

 「俺らは圧勝している」という感覚である.

 

 かっこ悪い表現で言えば自己肯定感だろう.

 

他人を下げて相対的に自分が上がっている(自分らは該当しないから)+自分らを上げるのだから.かなり圧倒的に自分たちが優位だ.圧勝だ.上記の3つの条件がそろったとき,会話参加者はみな「俺らは圧勝してる」という感じ,自己肯定感に浸れる.

 

全員が互いに肯定し合っている組織では互いを尊重したスムーズなコミュニケーションが成立する.これが儀式の果実だ.

 

自分らはdisらず×他人disる×自分らの価値を共有する

→ 俺ら圧勝しているぜ!という感覚を共有

→ 円滑なコミュニケーション

 

という仕組み.「圧勝儀式」とでもいおうか.

 

 

儀式には犠牲がつきものですが,その時に最も手っ取り早いのは「法人」だったり「国」だったりをdisり対象にすることだ.誰も傷つかない.

だから「典型的日本disり」をするのは円滑なコミュニケーションをするために,かなり汎用性があるやりかたなのだ.さらにいえば,この日本disりは単なる儀式であって,要するに挨拶みたいなものである.

 

なーんだ,みんな,日本が嫌いなわけではなくて,ただ圧勝したいだけだったのだ.

 

この儀式,僕自身はくだんねーなぁと思うことが多々あるんだけど,「圧勝儀式」の考え方を導入すれば,ようやく必要性を理解できる.

 

コミュニケーション・議論に集中するために「儀式」を用いることは,確かに知恵だと思う.「暑いですね,そうですね」の挨拶よりも,「圧勝儀式」を経た場合とそうでない場合と比べれば議論への集中度も違うんじゃないだろうか?

 

僕は「圧勝儀式」をすることが目的になってしまって

徹頭徹尾「圧勝」しまくって会話を終わる人は死んだらいいと思うけど,

楽しいお話のためにも,連帯感のためにも,「適度な圧勝」は重要,というわけだ.

 

人間は何とも面倒な生き物だ.