最近、祖父が死んだ。結構、長いこと生きた。
祖父の棺を持ち上げて、教会の外に運ぶのを手伝った。
祖父はクリスチャンだった。
クリスチャンだったけれど、死ぬ老人が多い東京では、火葬場が空いてない。
蓮の花と仏像が供えられた火葬場で、祖父は骨だけの姿に変わり、壺の中に入った。なぜかそれでも、壺が大きいせいか、存在感はあった。
祖父母の家にもどり、葬儀の後片付けをした。存在感のある壺、祖父は、いつも彼のベッドがあった場所に収まっていた。
そんなときに、ぽつりと祖母が言った。
「ユダは、救われたと思う?」
我々一族は、クリスチャンが多い。僕はちがうけれど、付き合いでミサには何度もいったから、ストーリーは知っている。
ユダは師匠であるイエス・キリストに「汝、なすべきをなせ」(とかなんとか)と言われ
いわれるままに、銀貨と交換に、キリストを売り、キリストが十字架にかけられるきっかけを作った。
そして、のちに自分のしたことを、激しく後悔し、首つり自殺をした青年だ。
なぜ、祖母がそんな話をいまするのか?全くよくわからないままに、思いつくままに応えた、
「神の代理人に言われたからこそ、なすべきをなしておったのに、それで神に救われないんだとしたら、だいぶん神様はひどいやつだ」と。
祖母は、肯定するでも否定するでもなく、
ユダは裏切りもの、ということになっているけれど、「ユダが裏切った」という記述は聖書にない。
ユダは、単に、「キリストを次の人に引き渡した」としか書いていない。
という趣旨のことを話した。
神の愛はユダにも開かれていて、ユダはたまたま、イエスを十字架に連れていくきっかけをつくる役回りだっただけだということだ。
彼はそのあと、自分のしたことを嘆き、自殺をする。
キリスト教では自殺はご法度とされている。
自殺は裏切り者が行う行為だから。裏切り者=自殺した人間=ユダ → 自殺はあかん。
さて、ここで会話は終わってしまったのだが、結局のところ、祖母の意図がよくわからなかった。
祖父はユダだったのだろうか?
祖母がユダだっただろうか?
。。
思い当たる点がひとつある。
被介護者の生と死は、本人の病状がある閾値を超え始めると、手続きそのものになる。
病院に対して、ある種の希望を伝えければ、それで祖父は死んでしまうのだ。
「延命措置を続けますか?」
イエス と答えないと、すぐに死はやってくる。
祖父の場合は、我々がノーと言ったわけではなく、祖父の病状がたまたま許さず、延命措置ができなくなった。
けれども、祖父の状態は、一定時期以降は、点滴と薬の積分値のように見えるところがあって、
毎日摂取するカロリーと、祖父の生命活動を表すパラメータは、あと何日生きるかさえ、かなりの精度で予言できてしまっていた。
なすべきことを淡々となして、その結果、祖父は死んでしまった。
キリスト教では、死は永遠の命の始まりであり、特に嘆くことではない。
父の国に、いくだけだから。
たしか、イエス・キリスト本人も、磔死に際して、弟子たちに「悲しむことはない」とか言ったはずだ。
「お悔やみ、愁傷、冥福」ではないらしく、葬儀では僕は何て言っていいかわからなかった。
讃美歌をみんなで歌うお葬式で、思ってた以上に明るい葬儀だった。
父の国に無事送り出すことに成功した、冥福を祈ることを禁じられた人々に生じるものは何だろう?
哲学、というともっともらしいけれど、凡人的にはやっぱり何かの感情に飲まれたい気もする。
ひょっとすると、「後悔」とか?
「なすべきをなさなかった後悔」そして、「なすべきことを、なしてしまったことの後悔」ではないだろうか。
後悔が最大級におしおせてしまったユダは、自殺をしてしまった。
責められるいわれはないんじゃないか?やっぱり。
みな、なすべきことをなしている、この世でいきるために。
残されたものはみな、ユダではないか。
祖父を死に連れていく役回りだっただけで、めぐりあわせが違えば、役は入れ替わっていたかもしれない。
現実は、僕は見送る側をやったにすぎない。今回は。
祖父自身が自らの死期を存分に理解しており、僕も、祖父がもう次の週には生きてないであろうことを知っていながら、
「元気で」という分かれ言葉で病室を後にしたことを、何度か思い出すこの感覚は、後悔というべきか否かを考えながら書いた。
何度も言うが僕はキリスト教徒ではなく、てきとうな人間なので「後悔なんか、あるわけなく」「冥福を祈り」、筆をおくことにする。
壺になったじーちゃん。また正月に会いましょう。