ライ麦畑でつかまえて

息子と一緒に初めて水族館に行った。抱きかかえてクラゲを見せたら、じっと見つめていたので、「変な形だよね、生きているんだよ。xxちゃんと一緒だよ。」と声をかけた。なぜか自分の言葉に自分で勝手にジーンとしてしまって、息子をたまらなくいとおしく思ったりした。水族館には広場みたいな場所があって、大人の往来があるちょっと危ない場所なのだが、小さな子供たちが何人も、親と一緒にぴょこぴょこ歩いていた。息子もダッシュ。初対面のお兄さん・お姉さんのマネをしてふらふらと動き回っていた。そして、前回のエントリを書きながら、何か既視感があるように思えたのは、これだったのだと、思い至った。

でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやってる。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。

キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J. D. Salinger, 村上春樹


ぼくにとっては「よく前を見ないで崖の方に走っていく子ども」は非常に具体的で自明で、まさに眼前にいる。より正しくは、走っていく先は崖じゃなくて、公道とか階段だけれど、それなりの確率で死ぬ。はっきり言って、何千人じゃなくて1人でも、なんなら「ちゃんとした大人みたいなの」が複数いてもたいへんなので、ぼくは文字通りベタに記載されている通りのライ麦畑のキャッチャーになりたいくないです。メタファーとしての上記の文章はとても素敵で、むかしのぼくのこころを打ったように思う。傷つきやすい・歴史を持たない・今ここに生き・理想を夢見るホールデン青年に感情移入したのかもしれないが、いま読むとどうだろうか。きっと分裂したような感想を抱くんじゃないかという気がします。子供と散歩に出るということは、いまここでまさに”ライ麦畑のキャッチャー”であることを要求する。責任が生じる。万が一、上記の通りに何千人もの子供がいて、大人みたいなのが僕しかいないなら、まずは子供たちを避難させ、たくさんの大人たち、できれば国家資格をもつ保育者優先で動員する。そういった種類のリアリズムに時間と集中力を割かねばならない。
そうやって、通勤電車で青年のメタファーにマジレスする中年のおっさんができあがっていくのかもしれない。