「ない」の衝撃からはじまる

息子が「これなあに」と言うようになった。
知らないものだけでなく、知っているものについても、確認の意味もあるのか、聞いてくることがままある。「これなあに」の由来は、息子に関しては明らかで、我々が図鑑を読み聞かせるときに、指差しと共に「これなあに」と確認していたからだ。言い方が一緒。親が言うことをオウム返ししたら、いろいろ答えてくれることを学んだのだろう。

ともあれ、子供構文の典型、「これなあに」「なんでxxなの」などのうちのひとつを身に着けたのだなぁと、感慨を覚える。


さらに面白いと思ったのは、「ない」だ。「ない」はかなり初期から息子の言葉のレパートリーに加わった。1歳を過ぎたころには、食べたくないものを表現するときに「ない!」と言っていたように思う。要らない、の短縮形かもしれない。息子はよく用語の前半を省略する。

最近は、ものが無いときにも「ない」と言えるようになった。親や保育園の人々が、探し物をしているところの真似から始まっているのだと思うのだけれど、「きゅうきゅうしゃ、ない」「ぱとかー、ない」と、おもちゃが無いことの不安を主張する。

「(要ら)ない」「無い」は彼にとっては不愉快や不安と強く結びついていて、不機嫌な時に「ないーー!!!」と怒っていたりする。
#わんわんの人形が見つからなくて大泣きしてしまったときは、まだ「無い」と言えなかったなぁ、、



ところで、パルメニデスの命題というものがある。

「あるものはある、ないものはない(あらぬものはあらぬ)」

アリストテレスをはじめとした哲学者が引用するこの文言は、「存在」および「否定」をそれそのもので分離して言及できるという人間の(言語の)特性が、形而上の概念操作を可能にしていることを歴史上はじめて示すものとして、後世の人々が繰り返し評価している。ベーコンやデカルト、近代に必要な思考法を発見しようとした人々の試みの起源は、「ある」「ない」という単語を、言語のまま上手に操作した古代ギリシアにあるのだと。近代の西洋の哲学者は、「存在」を経験から分離させ、言葉として操作できる能力を「知性」と呼んだ。


ぼくは、息子の中では不愉快の述語であろう「ない」が、純粋な論理記号としての「無い」に昇華する瞬間に立ち会えるのだろうか。
いまのところは、そのような論理記号の存在こそが妄想で、おもちゃがない不安や、食べたくはないという欲求こそが「存在」しており、その反射の束を重ねていったときに、帰納的に「ある」と「ない」が妄想として作り上げられているような気がしてならない。

ぼくは日本という国があるように錯覚しているがそれは幻想であることと同じように、「無い」もまた、幻想なんじゃないだろうか。
「無い」の衝撃も、事後的に、錯覚する(発見される)ことによって、スタートしたのではなかろうか。


#最近、息子が2歳の誕生日を迎えた。満開の桜を見ると、きみが生まれたときを思い出します。
##世間はChatGPT狂想曲の様相を呈している。とても楽しいし、ぼくも祭りに参加している。これからはもっと仕事が楽しくなるだろう。と、同時に、息子を見ていると、GPTで起こったとされるパフォーマンスの変曲点は我々が知性と言っていたものが偶像にすぎなかったということを証明しているだけな気もしており、超知性が生まれるというほどのことでもない気もしている。我々は肉体を持っており、「超知性」に我々が求めてしまう全知全能性は、肉体の世界への影響力が必要不可欠だからだ。
###このエントリを書いていて思ったけれど、アケメネス朝ペルシアの真・偽の宗教がパルメニデスの文言に影響を及ぼしているとしたら面白いですね。パルメニデスが言っていたことはペルシアの受け売りで、後世の人々、とくにプラトンあたりの人々が再発見する形で「存在論」化していったのなら、とてもそれっぽい。