重力
スタジオジブリの映画を見て育った。いま、息子も宮崎駿の映画を見て喜んでいる。
なんとなく環境破壊は良くないことだと感じつつ、科学の進歩には希望を抱きながらも、職人的な生き方を潔しとし、人類社会をときに大きく否定し、しかし、さりとて、この世界は生きるに値するのだと肯定した。スタジオジブリから生み出されるその創造をうらやましく思った。しかし、いつだろう、20代の中盤だろうか、いつしか自分の思考の基底にスタジオジブリやらクロノトリガーやらファイナルファンタジーやらが住み着いてしまっているのを感じた。他にも、母は自分でやりたいことがあったのに家庭に縛られて気の毒だったから、ぼくはそうはならない、とか。自分の頭で考えているようでいて、それは自分の育ちにかなり依存してしまっているようにも思えて、空恐ろしい気分になった。自分にこびりついたものを、かさぶたをカリカリと掻くように、剥ぎ取れないまでも、少なくとも自覚していこうと思った。なかでもスタジオジブリが与えているメッセージは強すぎた。
「風の谷のナウシカ」の漫画は、いつしか人に必ず勧める面白いマンガではなく、自分の思考を縛る枷と感じるようになっていた。「いのちは、闇の中をまたたく光だ。」「私達は血を吐きつつ、くり返しくり返し、その朝をこえて、とぶ鳥だ」「生きることは変ることだ」「有毒の大気 凶暴な太陽光 枯渇した大地 次々と生まれる新しい病気 おびただしい死 ありとあらゆる宗教 ありとあらゆる正義 ありとあらゆる利害。調停のために神まで造ってしまった。」「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられない」「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな」「玄関に陽が入るよう木々の手入れをすることと、勇敢に困難に立ち向かう英雄と、いかばかりの違いもない」「きまぐれで、あるいは不幸のどん底で、自分の映画を見た人が、少しだけでも前を向けるような」「過去を悔やまず、未来を憂えない、今ここに生きる」「人間は度し難いほど愚かで、くだらない存在だけれど、それでも人生は生きるに値すると言おう」
スタジオジブリは厄介だ。ステレオタイプなお話だけならば、簡単に乗り越えられただろう。高畑勲は、ファンタジーを否定し、感情移入を否定し、晩年に初音ミクを自在に操る。巨万の富を得たはずの映画監督は、所沢の建売住宅に住み、十億円を超えるカネを環境保護に寄付する。プロデューサーは会社を持続させることや売り上げをあげることは何も難しくない、自分たちの映画の本質を捉えるのが難しい、と言う。
環境活動家がスタジオジブリの”環境保全のメッセージ”に過度に同調して文明を否定してみせると、宮崎駿は「でも、あなたたちは電気冷蔵庫を使い、海外へは飛行機で行きますよね。私も電気冷蔵庫を使い、飛行機に乗ります。」と言う。自分たちは、文明を享受している、と自覚している。
(さつきとトトロが出会うシーンについて)
神秘性をやたらと強調しちゃうと違うし、かといって、ムジナが隣に出てきましたっていうふうに、あたら親近感をもって作っちゃうとこれも違う。だから、久石さんのミニマル・ミュージックの無正確な感じが、あれが一番よかったですね。
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かさぶたと呼ぶには、余りに大きな、刻印だった。
新左翼について学んだ。なるほど、スタジオジブリというのはある意味で、「革命戦士」たちの最も成功した姿といえるのかもしれない。だからなんだというのか、銀行強盗して革命とか言っていてはダメだという分かり切ったことが分かっただけで、スタジオジブリの面々はすごいだけじゃないか。ぼくが生まれる前から世界は存在していて、より巨大な刻印が、先輩方にも刻まれていたのだと実感するだけだ。
堀田善衛、加藤周一、宮本常一、レヴィストロース、網野善彦、中尾佐助、彼らを形作ったものの一部は開示されている。読んだところでトレースだけれど、この重力を跳ね返すための、何かの足しにはなるかもしれない。
「機械がまだ機械のたのしさを持っていた時代。科学が必ずしも人を不幸にするとは決まっていないころ、そこではまだ世界の主人公は人間だった。」
「むかーしむかしは木と人は仲良しだったんだよ」
少しだけ、乗り越える糸口がつかめつつある。
生物学と考古学の進歩により、ホモサピエンスより以前から、ホミニドは火を使っていることが分かっている。人類の宿痾は、火の使用ではない。僕たちは、神経科学の発展や、LLMの勃興により、はるかに自分たちが”条件反射の生物”であることを学んでいる。「自分が考えたこと」は、自分が反射したことを認識するために事後的に生まれる。人々の世界認知は時代の函数のようなふるまいをする。世代交代とともに非連続に移り変わる。「自分」「自分の本当にやりたいこと」は、中世から近代にかけて、王権とは別の支配様式を望む人々の便益により、ヨーロッパで「発明」されたものだ。
さつきとメイのお母さんは帰って来る。しかし、それは、ストレプトマイシンを誰かが発見し、誰かが量産し、誰かが運び、医者やお父さんが買い、お母さんが幸運にも適切に使用したからだ。結核に倒れたお母さんが帰ってこない世界線は、確実に存在しただろう。
お母さんが結核を克服して帰ってくるという大団円を支えているのは、ファンタジーではなくて、無数の選択肢が必要な順番で偶然にも選ばれた結果だ。その幸運の連鎖を、ぼくにとっての新しいファンタジーにしてもよいではないか。
うむ。少しだけ、「自分のあたまで考えた」気がしました。
君たちはどう生きるか
僕が苦しく、現実を受け止めきれずに、精神世界に引きこもってしまい、1年が経とうとするとき。僕の息子が表れて、その精神世界の禁忌を顧みず、大切な人を守り、英雄的な気魄をもって進み、「友達を作ります」と言う。
そのまなざしに励まされて、現実に戻っていく。
戻った僕は全てを忘れている。
現実と向き合う勇気を少しだけ手にしている。
自分はなんで生き残ってしまったのか。この分岐をプレイしている理由はなんなのか。別の分岐では、ぼくはネットの荒らしになっている。別の分岐では、とうの昔に野垂れ死んでいて、息子の顔をみることなどなかっただろう。
僕が生き残ることができたのは、もしかすると、僕の精神世界に迷い込んだ息子たちのおかげなのかもしれない。
僕は自分に”英雄的な気魄”なんて備わっているとは思っていないけれど、いつか願いが、本でも何でもいいけれど、何かの形で君たちの手元に届くことがあるならば。”この世界は生きるに値する”という仮説を胸に、きっと次の朝を迎えることができるだろう。
曇りなき眼で見定め、決める
はりつめた弓のふるえる弦よ 月の光にざわめく おまえの心
とぎすまされた刃の美しい そのきっさきに よく似たそなたの横顔
悲しみと怒りに ひそむまことの心を知るは 森の精
息子がもののけ姫に激ハマりしているので、1日1回はこの曲を聴いているのだが、妻がすごいことに気が付いた。この歌詞には、歌い手が少なくとも2人いるという。「おまえの心」「そなたの横顔」 you を表す表現に2種類あるから、主体が異なる。僕は米良さんの歌声に聞きほれてしまっていて、ぶっちゃけ歌詞は映画の雰囲気を乗せる単語を並べたくらいのもの、としか理解していなかった(ちなみに、息子は米良さんのオリジナルバージョンの音声じゃないyoutube musicを流すと、めっちゃ怒る。米良さん凄い)。「もののけ姫」の主題歌を歌う人間が2人いる。もう明確だろう。「おまえ」と相手を呼ぶ人間はサン。「そなた」と相手を表現するのは、アシタカ。これはデュエットだったのだ。
はりつめた弓のふるえる弦よ 月の光にざわめく おまえの心
これはサンからアシタカに向けている。
とぎすまされた刃の美しい そのきっさきに よく似たそなたの横顔
これはアシタカからサンに向けている。アシタカは想いの伝え方がストレートだ。
最後の疑問はこれだけだ。
これを誰が歌っているのか。サンとアシタカ、二人で歌っているのか。それとも第三者か。 ”悲しみと怒りに ひそむまことの心” とは何か。もののけたちしか知りえないのはなぜか。妻とも議論になったが結論は出なかった。
映画を息子と見直した(3歳児に見せる映画じゃない気がするんだが、、、なんやかんやでこれで息子が「もののけ姫」を見るのは2回目である)。映画の中で、主題歌が流れるのは1シーンのみ。身体を石火矢で打たれたアシタカがモロ一族に匿われ、サンに介抱されて、夜中に目覚めるシーンだ。アシタカは月明かりの中、うめき声をあげ、ついに目覚める。サンはアシタカの隣で寝息を立てていて、アシタカはサンを見て月の光の下、外に出る。「黙れ小僧!」美輪明宏に叱られる。
つまり、主題歌「もののけ姫」は、モロたちは見守っているけれども、サンとアシタカが洞窟の中で二人っきりのシーンで流れる曲なのだ。作詞は宮崎駿。歌詞の意味と使用には、監督の意思が反映されているだろう。
呪われて故郷を追われた悲しみや、自分を育てた母たる山犬に致命傷を与えた人間に対する怒りは、よく表現されているけれども、その背後にある葛藤は微かにしか描かれない。アシタカは常に隙を見せず有能だし、山犬に育てられたはずの娘が服を着て、石器を操り、仮面を被るその理由は語られない。けれども、アシタカからもらった首飾りを見て「きれい、、」というサン。シシガミとの邂逅を経ても呪いが消えなかったことに気が付いたときのアシタカ。1秒にも満たないかもしれないが、彼らの悲しみと怒りの背後の気持ちも、確かに表現されている。きっと、この曲は、サンとアシタカがいちゃいちゃしてるときの歌なのだ。洞窟の中で。「はりつめた弓のふるえる弦よ」とか、傷に呻くイケメン可愛い、と言ってるサンの本音が聞こえてくるようだ。
「謎が解けた。要するに、二人がエッチしてるのを見たのはもののけ達だけ、ってことだったんだよ」
と妻に言ったら怒られた。
某不思議のダンジョン
妻がハマりすぎていてちょっとしんどい。
そもそもいま、妻は妊娠中で、ケアが必要な存在なのだが、平日、私が帰宅した後、あるいは、土日は、風来のシレン6に夢中になっていて、ほぼまったく家事と子供のケアをしてくれない。いや、それは語弊がある。息子のトイレトレーニングは至上命題らしく、毎晩、息子が寝る前にトイレには連れて行っている。
あと、当然お休みの日は息子とどこかにでかけたいらしく、そのお楽しみイベントだけはやる。
しかし、その他は全くやってくれない。シレン6をやっているか、寝ているか。ご飯も洗濯も掃除も食器洗いもゴミ出しも買い出しも、息子の相手も、息子の毎晩のうんこもシレンが発売してから常に私の仕事である。もともと家事なんかわたくしごとですが。息子のうんこもこの数か月9割わたしだったけど。
疲れ果てていて、寝かしつけが終わった後に帰ってきて仕事をするパワーがほぼ残っていない。
前回、妻が妊娠していたときはコロナ中で、リモートワークが100%に近く、時間的余裕があったし、とくに体力的に余裕があった。妻のケアはほぼ自分がやりきったという自信があり、なんなら、どうぶつの森にハマったときに今と同じような状況だった記憶がある。やつはどうぶつの森、私はその他すべて。
しかし、今は行き帰り合計3.5時間くらいの通勤+2歳児の息子がいる中で、これをこなすのは厳しさがある。いや、わかっておる。妊婦はお腹が痛いと動けないとか当然あろう。無理せよとは言ってない。お腹が痛いときも楽な時も、スイッチかスマホを片時も離さないからこっちはようわからへんのや。手加減してくれ。
もちろん妻はこういう私の空気は察しており、この記述は完全に私の主観ベースでしかないだろう。
ぼくも風来のシレン初代は本当に大好きだったけれど、まじでこのタイミングに名作作んなよと思う。
金曜の夜に片付ける予定だったタスクをここまで引っ張ってしまって逃避で書いている。
こんなものを書いている間に終わらせろと自分に言い聞かせ、たぶん私はこのまま寝る。
J-popの復活
子供服や乳幼児用品を販売している西松屋のCMには、米米CLUBの「君がいるだけで」のサビの歌詞が使われているものがある。
たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
何より大切なものを 気付かせてくれたね
心がゆさぶられる。
なお、この歌詞は、曲全体を眺めるとどう考えても恋愛歌の一部であることは知っている。切り取ったら子供のことを歌っているように聞こえるだけだ。けれども、心が揺れずにはいられない。
ぼくの人生のほとんどの時期はJ-POPを聞いていない。ゲーム音楽や電子音を聞いている。歌詞が邪魔。そもそも、息子が生まれて、音楽をゆっくり聴く時間なんてなくなった。恋愛ソングに感情移入する、そんなエネルギーはどこにもない。
バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日
でもさ、君は運命の人だから強く手を握るよ
君のいない世界にも 何かの意味はきっとあって
でも君のいない世界など 夏休みのない八月のよう
君のいない世界など 笑うことないサンタのよう
人間の恋愛感情は母性の派生形質として誕生したことが分かっている。理屈上は、恋愛ソングが惹起する感情の近接部には母性がある。そんなことも、わかっている。
あなたと過ごした日々を この胸に焼き付けよう 思い出さなくても大丈夫なように
いつか他の誰かを好きになったとしても あなたはずっと特別で 大切で
またこの季節がめぐってく
ありふれた時間が愛しく思えたら それは"愛の仕業"と小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられているサイン
もう何ひとつ見落とさない そんなことを考えている
迷いながら 間違いながら 歩いていく その姿が正しいんだ
君が立つ地面は ホラ 360度 全て 道なんだ
Stage of the ground
那由多に広がる宇宙
その中心は小さな君
歌詞のあるJ-POPが帰ってきた。
暴力の人類史
「たたくよ!」と怒りながら息子が手を僕にあげる。怒りの表情と、喜びの表情がまじりあったような、なんとも身に覚えのある顔だ。僕は叱る。「人を殴ってはダメだよ」「なんで殴ろうと思ったの」
先日は、お迎えの時に保育士さんから報告があった。息子は保育園でお友達を叩いてしまったらしい。おもちゃの車の奪い合い。イライラが高ぶるとつい叩いてしまう。家では、人を叩くのはちょっと楽しいぞ、といった表情も見せる。人類は優しさを後天的に学ぶ。むかし、親友が「人間には人間を殺したいという欲望があると思う」と言っていたのを思い出した。
かつて、古代メソポタミア、肥沃な三日月地帯の人々が「神官」という概念を作り出したとき、町は壁に囲まれていなかったという。ウクライナに存在する歴史時代以前の超大規模集落は、ダンバー数をはるかに超える規模で、構造的には平等な”社会”を作っていたと考えられている。新石器時代の農耕地の多くは、柵を伴っていなかったようなのだ。
息子は、怒りを拳にして、どこかにぶつけないといけないときがある。けれども、言って諭すと、少し、がまんができる。息子の倫理観というものが、暴力についての考え方の枠組みが、いままさに構築されつつあるように思う。
先週は、息子は保育園で誰かに噛まれて帰ってきた。泣いたけれど仲直りしたらしい。ほんとはまだまだたくさん喧嘩をしていいぞ、と思いながら、家の玄関の鍵を確認し、息子を抱きしめて僕は眠る。
そして今日の夕方、保育園から電話があった。
「息子さんがお友達を噛みました」
宗教の生み出す本能
「これは俺の物語だ」というセリフはファイナルファンタジーXだったかとおもう。自分の人生を肯定する力強いセリフだった。ドキドキしながらプレイしていた記憶がある。それから20年くらいたった現在、、、ファイナルファンタジーXは歌舞伎になったらしいですね。びっくりしました。
一方で、ぼくはといえば、「ぼくの宗教」に属しており、物語を信じている。それをできるかぎり説明したいと思います。
【世界観】
人間は一皮むくと、こういうことだと思う。
・ご飯をいっぱい食べたい
・じぶんの居場所がほしい
・他人よりそれなりに優位なステータス(性的充足・社会的/金銭的地位・血族的有意性)を得たい
妻は賢くて直感的に上記をわかっているが、ぼくは腹落ちするまで、ずいぶんと長い時間がかかった。人間は歴史の中でずっと上記を繰り返し続けている。*何も進歩はしない*
法、慣習、技術、資本、そして(恨みを典型例とした)感情が後代に受け継がれるために、進歩があるように見えている。
加えて、人間社会は天才/狂人たる個人や世紀の大発明によって動いているのではなく、人間に制御できない要因で動いている。秦の始皇帝は類を見ない帝国を作ったが、それには温暖化が必須であった。ソクラテス・孔子・釈迦などが世界で同時的に出現したのは温暖になって作物の増産・狩猟対象の増加が起き、余剰が発生したからだと考えられている。逆に、ローマ帝国の滅亡や応仁の乱といった乱世が起きるのは、限られた人物たちの失政によるというよりは、寒冷化で農作物や獲物が取れなくなって、上記が十分に満たされなくなった時だ。人間社会は、農作物・水産物・建材・冶金の関数であって、それらを支えているのは、人間よりも地球・宇宙の状態である。
縄文時代、温暖化が叫ばれている現在よりもずっと暖かった。恐竜が生きていたころ、両極には氷は無かった。その意味も分からないまま、ぼくたちは、来るべき地球温暖化後の世界におびえている。
人類は制御不可能な大きな流れの中に生きている。GPUクラスタがうなりを上げても偏西風の向きは変わらないし、チベットの氷は溶け続ける。
「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、たまたま偶然成立しているにすぎない。」
主語が大きくなった。
しかし、宗教というのは神話をもっていて、たいていの場合は主語が巨大なものである。ご容赦ください。
さて。ぼくたちは制御不可能な世界の中にいる。
だが、しかし、さりとて、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。ぼくの宗教の前提である。
「うまくやれば世界へ小さな影響を与えることは可能」
これは超越である。
SNSが浸透した私たちの社会は、僕たちがとるに足らない存在であることを可視化する。同じ階級にいる人間は、最終的には大体似たようなキャリアに落ち着くらしい。「自分しかできない」ことなんか当然ないし、運命も恋だって遠くから見たらランダムウォークと区別がつかない。我々は人口動態のモデリング通りに番い増える。脳科学は、ヒトの行動は即時的な反応の束であって、意志というものが生じるのはすでに行動したあとである、という身も蓋もない事実を明らかにした。なにかを考えているようでいて、実質的には外部環境への反応の奴隷であるぼく。制御不可能で徹頭徹尾合理的な世界において、標本のひとつにすぎない自分が「世界に小さな影響を与えられる」などと言えるのだろうか?断言しているぼくは、何らかの超越、宗教を信じているというわけだ。
【超越の源泉】
ぼくの宗教のもつ超越はどこからうまれるのか?
ぼくが生きているからだ。
自分がなんで生きているのか?考えたことはあるだろうか。取り立てて意味なんかない。ぼくの生命。じぶんが生きている理由は、両親のセックスの結果で、母の子宮がそれなりに機能した結果で、糞尿垂れ流しで泣いて母乳を求めることしかできなかった存在を通過しきったからだ。ぼくには、生き残ってしまった、という自覚がある。潤沢な食料と現代医療が無かったら死んでいただろう、という自覚がある。小さいころアレルギー体質で、体も弱かったからだろうか。横で寝ている妹が月に一回死にかけていたからだろうか。小学校の高学年のときには、なんか死にかけたぞ、いま、みたいなヒュッとするような感覚に襲われることがたびたびあった。中学生のときにパラレルワールドに行くゲームをやった。パラレルワールドでは自分は幼いころにおぼれ死んでいて、もういない。自分が幼いころに死んでしまった可能世界。納得感があった。自分は死ぬ蓋然性が高かった存在であり、何かのはずみで生き残ったのである。
自分はなんで生き残ってしまったのか。この分岐をプレイしている理由はなんなのか。
別の分岐では、ぼくはネットの荒らしになっている。別の分岐では、とうの昔に野垂れ死んでいて、息子の顔をみることなどなかっただろう。
「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、地球・宇宙のいっときの偶然で、たまたま成立しているにすぎない。」
「ぼくの人生はもろく、いつ失われてもおかしくないもので、何かのはずみで生き残っているにすぎない。」
相似形の思考を走らせていく。
遠い昔、誰かが、何かのタイミングで、ちょっとだけ人類の文明の崩壊を食い止める動きをしたとしたら。
【教義】
・平行世界では私/人類社会は死んで/滅亡している
・わたし/じんるいは、わたし/じんるいを生かそうとした何者かによって、たまたま生き残っている
これらの想像力の上に「誰かを生かそうとした名もなき行為者の総和によって、私は・人類は、たまたま偶然にも生き延びる世界線上にある。」という、ぼくの宗教が持っている大いなる仮説、もとい教義がうまれる。
自分はなんで生き残ってしまったのか。*新しい何かのはずみ*を生み出すためである。将来、誰かが、生き残る世界線を構築するためなのである。シンプルにいえば、自分が発見した人類滅亡のシナリオを避けられるようにするのが、たまたま生き残る世界線をプレイする自分たちに課せられたミッションである。わたしたちは制御不可能な世界の中にいるが、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。なぜなら、その小さな影響によって、ぼくという個人が生かされているからである。
人類滅亡を避ける?そもそも、その前提が間違っているのでは。AIによる革命で、人類には明るい未来がくる。自分の内部に湧き上がる享楽に誠実になるのが健全で、短い饗宴を愉しむのが正しい。むろん、そういうシナリオもあるのかもしれない。けれども、現状は。
xx菌がマレーシアの某プランテーションに蔓延したら。yyの奥地に存在する某鉱山を破壊したら。zzにある種子庫を爆破したら。回復不可能なほどの致命的ダメージを人類文明は受けてしまう。「現代」の文明を緩慢に死に追いやることは、簡単なのである。こういった事柄に従事する人間は呆れるほど少なく、おどろくほど金銭的に報われず、そして、なんといっても、全く注目されない。行政は当然ながら重要性には気が付いており保守にあたっているものの、多くのリソースを割くことは(とくに表向きには)無い。バズらず、儲からず、そして寂れている裏路地のようなコミュニティが無数にあり、それらが人類社会を支えている。いや、支えているかも、ほんとうは分からない。危機はまだ起こっておらず、危機は仮説でしかないからだ。
【宗教を生み出す本能】
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ぼくが37年間という短い時間を生きてきて、その人生を正当化したいという本能は、上記のような複雑怪奇な物語を生み出している。ほんとうは、ぼくにやれることは何もない。長い時間、同じような仕事をやっていると、そこに意味を見出してしまうという脳の習性が、「物語」を脳内に住まわしてしまっただけだろう。この物語から自由になったときに、ぼくのほんとうの人生がはじまるのかもしれない。しかし、手元では物語は微速ながら前進している。はずみで世界に影響を与えつつある。
しかも、ときおり、話していると「近い宗教に属している」と思しき人間に出会うこともある。当宗教は、折伏・団結という宗教が本来おこなうべき行為がかけているので、ほんのいっとき、「あぁ、彼らも何かをはずみを作り出しているのだな」と思って祈る程度だ。わたし・彼・彼女のつくりだしたはずみが、その影響がポジティブなものであることを祈るけれど、世界が複雑すぎるためにどうなるかはわからない。取り換え可能な標本が、制御不可能な世界に影響を与えたと断言するのは、フェアではないだろう。
けれども、だからこそ、ぼくはあえて言いたいと思う。「これが俺の物語だ」と。