某不思議のダンジョン

妻がハマりすぎていてちょっとしんどい。
そもそもいま、妻は妊娠中で、ケアが必要な存在なのだが、平日、私が帰宅した後、あるいは、土日は、風来のシレン6に夢中になっていて、ほぼまったく家事と子供のケアをしてくれない。いや、それは語弊がある。息子のトイレトレーニングは至上命題らしく、毎晩、息子が寝る前にトイレには連れて行っている。
あと、当然お休みの日は息子とどこかにでかけたいらしく、そのお楽しみイベントだけはやる。

しかし、その他は全くやってくれない。シレン6をやっているか、寝ているか。ご飯も洗濯も掃除も食器洗いもゴミ出しも買い出しも、息子の相手も、息子の毎晩のうんこもシレンが発売してから常に私の仕事である。もともと家事なんかわたくしごとですが。息子のうんこもこの数か月9割わたしだったけど。

疲れ果てていて、寝かしつけが終わった後に帰ってきて仕事をするパワーがほぼ残っていない。

前回、妻が妊娠していたときはコロナ中で、リモートワークが100%に近く、時間的余裕があったし、とくに体力的に余裕があった。妻のケアはほぼ自分がやりきったという自信があり、なんなら、どうぶつの森にハマったときに今と同じような状況だった記憶がある。やつはどうぶつの森、私はその他すべて。

しかし、今は行き帰り合計3.5時間くらいの通勤+2歳児の息子がいる中で、これをこなすのは厳しさがある。いや、わかっておる。妊婦はお腹が痛いと動けないとか当然あろう。無理せよとは言ってない。お腹が痛いときも楽な時も、スイッチかスマホを片時も離さないからこっちはようわからへんのや。手加減してくれ。

もちろん妻はこういう私の空気は察しており、この記述は完全に私の主観ベースでしかないだろう。

ぼくも風来のシレン初代は本当に大好きだったけれど、まじでこのタイミングに名作作んなよと思う。

金曜の夜に片付ける予定だったタスクをここまで引っ張ってしまって逃避で書いている。
こんなものを書いている間に終わらせろと自分に言い聞かせ、たぶん私はこのまま寝る。

J-popの復活

子供服や乳幼児用品を販売している西松屋のCMには、米米CLUBの「君がいるだけで」のサビの歌詞が使われているものがある。

たとえば 君がいるだけで 心が強くなれること
何より大切なものを 気付かせてくれたね

心がゆさぶられる。
なお、この歌詞は、曲全体を眺めるとどう考えても恋愛歌の一部であることは知っている。切り取ったら子供のことを歌っているように聞こえるだけだ。けれども、心が揺れずにはいられない。

ぼくの人生のほとんどの時期はJ-POPを聞いていない。ゲーム音楽や電子音を聞いている。歌詞が邪魔。そもそも、息子が生まれて、音楽をゆっくり聴く時間なんてなくなった。恋愛ソングに感情移入する、そんなエネルギーはどこにもない。

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日
でもさ、君は運命の人だから強く手を握るよ

君のいない世界にも 何かの意味はきっとあって
でも君のいない世界など 夏休みのない八月のよう
君のいない世界など 笑うことないサンタのよう

人間の恋愛感情は母性の派生形質として誕生したことが分かっている。理屈上は、恋愛ソングが惹起する感情の近接部には母性がある。そんなことも、わかっている。

あなたと過ごした日々を この胸に焼き付けよう 思い出さなくても大丈夫なように 
いつか他の誰かを好きになったとしても あなたはずっと特別で 大切で 
またこの季節がめぐってく

ありふれた時間が愛しく思えたら それは"愛の仕業"と小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられているサイン
もう何ひとつ見落とさない そんなことを考えている

迷いながら 間違いながら 歩いていく その姿が正しいんだ
君が立つ地面は ホラ 360度 全て 道なんだ
Stage of the ground


那由多に広がる宇宙
その中心は小さな君


歌詞のあるJ-POPが帰ってきた。

暴力の人類史

「たたくよ!」と怒りながら息子が手を僕にあげる。怒りの表情と、喜びの表情がまじりあったような、なんとも身に覚えのある顔だ。僕は叱る。「人を殴ってはダメだよ」「なんで殴ろうと思ったの」

先日は、お迎えの時に保育士さんから報告があった。息子は保育園でお友達を叩いてしまったらしい。おもちゃの車の奪い合い。イライラが高ぶるとつい叩いてしまう。家では、人を叩くのはちょっと楽しいぞ、といった表情も見せる。人類は優しさを後天的に学ぶ。むかし、親友が「人間には人間を殺したいという欲望があると思う」と言っていたのを思い出した。
かつて、古代メソポタミア、肥沃な三日月地帯の人々が「神官」という概念を作り出したとき、町は壁に囲まれていなかったという。ウクライナに存在する歴史時代以前の超大規模集落は、ダンバー数をはるかに超える規模で、構造的には平等な”社会”を作っていたと考えられている。新石器時代の農耕地の多くは、柵を伴っていなかったようなのだ。

息子は、怒りを拳にして、どこかにぶつけないといけないときがある。けれども、言って諭すと、少し、がまんができる。息子の倫理観というものが、暴力についての考え方の枠組みが、いままさに構築されつつあるように思う。

先週は、息子は保育園で誰かに噛まれて帰ってきた。泣いたけれど仲直りしたらしい。ほんとはまだまだたくさん喧嘩をしていいぞ、と思いながら、家の玄関の鍵を確認し、息子を抱きしめて僕は眠る。

そして今日の夕方、保育園から電話があった。
「息子さんがお友達を噛みました」

宗教の生み出す本能

「これは俺の物語だ」というセリフはファイナルファンタジーXだったかとおもう。自分の人生を肯定する力強いセリフだった。ドキドキしながらプレイしていた記憶がある。それから20年くらいたった現在、、、ファイナルファンタジーXは歌舞伎になったらしいですね。びっくりしました。
一方で、ぼくはといえば、「ぼくの宗教」に属しており、物語を信じている。それをできるかぎり説明したいと思います。

【世界観】

人間は一皮むくと、こういうことだと思う。

・ご飯をいっぱい食べたい
・じぶんの居場所がほしい
・他人よりそれなりに優位なステータス(性的充足・社会的/金銭的地位・血族的有意性)を得たい

妻は賢くて直感的に上記をわかっているが、ぼくは腹落ちするまで、ずいぶんと長い時間がかかった。人間は歴史の中でずっと上記を繰り返し続けている。*何も進歩はしない* 
法、慣習、技術、資本、そして(恨みを典型例とした)感情が後代に受け継がれるために、進歩があるように見えている。

加えて、人間社会は天才/狂人たる個人や世紀の大発明によって動いているのではなく、人間に制御できない要因で動いている。秦の始皇帝は類を見ない帝国を作ったが、それには温暖化が必須であった。ソクラテス孔子・釈迦などが世界で同時的に出現したのは温暖になって作物の増産・狩猟対象の増加が起き、余剰が発生したからだと考えられている。逆に、ローマ帝国の滅亡応仁の乱といった乱世が起きるのは、限られた人物たちの失政によるというよりは、寒冷化で農作物や獲物が取れなくなって、上記が十分に満たされなくなった時だ。人間社会は、農作物・水産物・建材・冶金の関数であって、それらを支えているのは、人間よりも地球・宇宙の状態である。

縄文時代、温暖化が叫ばれている現在よりもずっと暖かった。恐竜が生きていたころ、両極には氷は無かった。その意味も分からないまま、ぼくたちは、来るべき地球温暖化後の世界におびえている。

人類は制御不可能な大きな流れの中に生きている。GPUクラスタがうなりを上げても偏西風の向きは変わらないし、チベットの氷は溶け続ける。

「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、たまたま偶然成立しているにすぎない。」

主語が大きくなった。
しかし、宗教というのは神話をもっていて、たいていの場合は主語が巨大なものである。ご容赦ください。

さて。ぼくたちは制御不可能な世界の中にいる。
だが、しかし、さりとて、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。ぼくの宗教の前提である。

「うまくやれば世界へ小さな影響を与えることは可能」


これは超越である。

SNSが浸透した私たちの社会は、僕たちがとるに足らない存在であることを可視化する。同じ階級にいる人間は、最終的には大体似たようなキャリアに落ち着くらしい。「自分しかできない」ことなんか当然ないし、運命も恋だって遠くから見たらランダムウォークと区別がつかない。我々は人口動態のモデリング通りに番い増える。脳科学は、ヒトの行動は即時的な反応の束であって、意志というものが生じるのはすでに行動したあとである、という身も蓋もない事実を明らかにした。なにかを考えているようでいて、実質的には外部環境への反応の奴隷であるぼく。制御不可能で徹頭徹尾合理的な世界において、標本のひとつにすぎない自分が「世界に小さな影響を与えられる」などと言えるのだろうか?断言しているぼくは、何らかの超越、宗教を信じているというわけだ。


【超越の源泉】


ぼくの宗教のもつ超越はどこからうまれるのか?

ぼくが生きているからだ。

自分がなんで生きているのか?考えたことはあるだろうか。取り立てて意味なんかない。ぼくの生命。じぶんが生きている理由は、両親のセックスの結果で、母の子宮がそれなりに機能した結果で、糞尿垂れ流しで泣いて母乳を求めることしかできなかった存在を通過しきったからだ。ぼくには、生き残ってしまった、という自覚がある。潤沢な食料と現代医療が無かったら死んでいただろう、という自覚がある。小さいころアレルギー体質で、体も弱かったからだろうか。横で寝ている妹が月に一回死にかけていたからだろうか。小学校の高学年のときには、なんか死にかけたぞ、いま、みたいなヒュッとするような感覚に襲われることがたびたびあった。中学生のときにパラレルワールドに行くゲームをやった。パラレルワールドでは自分は幼いころにおぼれ死んでいて、もういない。自分が幼いころに死んでしまった可能世界。納得感があった。自分は死ぬ蓋然性が高かった存在であり、何かのはずみで生き残ったのである。

自分はなんで生き残ってしまったのか。この分岐をプレイしている理由はなんなのか。

別の分岐では、ぼくはネットの荒らしになっている。別の分岐では、とうの昔に野垂れ死んでいて、息子の顔をみることなどなかっただろう。

「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、地球・宇宙のいっときの偶然で、たまたま成立しているにすぎない。」

「ぼくの人生はもろく、いつ失われてもおかしくないもので、何かのはずみで生き残っているにすぎない。」

相似形の思考を走らせていく。

遠い昔、誰かが、何かのタイミングで、ちょっとだけ人類の文明の崩壊を食い止める動きをしたとしたら。


【教義】

・平行世界では私/人類社会は死んで/滅亡している
・わたし/じんるいは、わたし/じんるいを生かそうとした何者かによって、たまたま生き残っている

これらの想像力の上に「誰かを生かそうとした名もなき行為者の総和によって、私は・人類は、たまたま偶然にも生き延びる世界線上にある。」という、ぼくの宗教が持っている大いなる仮説、もとい教義がうまれる。

自分はなんで生き残ってしまったのか。*新しい何かのはずみ*を生み出すためである。将来、誰かが、生き残る世界線を構築するためなのである。シンプルにいえば、自分が発見した人類滅亡のシナリオを避けられるようにするのが、たまたま生き残る世界線をプレイする自分たちに課せられたミッションである。わたしたちは制御不可能な世界の中にいるが、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。なぜなら、その小さな影響によって、ぼくという個人が生かされているからである。


人類滅亡を避ける?そもそも、その前提が間違っているのでは。AIによる革命で、人類には明るい未来がくる。自分の内部に湧き上がる享楽に誠実になるのが健全で、短い饗宴を愉しむのが正しい。むろん、そういうシナリオもあるのかもしれない。けれども、現状は。

xx菌がマレーシアの某プランテーションに蔓延したら。yyの奥地に存在する某鉱山を破壊したら。zzにある種子庫を爆破したら。回復不可能なほどの致命的ダメージを人類文明は受けてしまう。「現代」の文明を緩慢に死に追いやることは、簡単なのである。こういった事柄に従事する人間は呆れるほど少なく、おどろくほど金銭的に報われず、そして、なんといっても、全く注目されない。行政は当然ながら重要性には気が付いており保守にあたっているものの、多くのリソースを割くことは(とくに表向きには)無い。バズらず、儲からず、そして寂れている裏路地のようなコミュニティが無数にあり、それらが人類社会を支えている。いや、支えているかも、ほんとうは分からない。危機はまだ起こっておらず、危機は仮説でしかないからだ。



【宗教を生み出す本能】

***********
ぼくが37年間という短い時間を生きてきて、その人生を正当化したいという本能は、上記のような複雑怪奇な物語を生み出している。ほんとうは、ぼくにやれることは何もない。長い時間、同じような仕事をやっていると、そこに意味を見出してしまうという脳の習性が、「物語」を脳内に住まわしてしまっただけだろう。この物語から自由になったときに、ぼくのほんとうの人生がはじまるのかもしれない。しかし、手元では物語は微速ながら前進している。はずみで世界に影響を与えつつある。
しかも、ときおり、話していると「近い宗教に属している」と思しき人間に出会うこともある。当宗教は、折伏・団結という宗教が本来おこなうべき行為がかけているので、ほんのいっとき、「あぁ、彼らも何かをはずみを作り出しているのだな」と思って祈る程度だ。わたし・彼・彼女のつくりだしたはずみが、その影響がポジティブなものであることを祈るけれど、世界が複雑すぎるためにどうなるかはわからない。取り換え可能な標本が、制御不可能な世界に影響を与えたと断言するのは、フェアではないだろう。
けれども、だからこそ、ぼくはあえて言いたいと思う。「これが俺の物語だ」と。

二人がここにいる不思議

結婚して、子供がいて、いろいろ思ったのですが、

「不幸になれなくなった」

という点もひとつ挙げられそうです。
ぼくが何もしなかったら死んでしまう、あるいは、とてつもなく心身の健康を損なってしまう存在が近くにいるということは、

自分が不幸だとか、幸せだとか、どのようにみられているだとか、どのようになりたいとか、そういった思考を停止させる。

シンプルに、子育ては、妻を支えることは、思考停止ツールとして優れていると思う。

現代社会は、とくにSNSの発達した社会では、余計なことを考える時間が多すぎる。オカネがあるとかないとか、生活レベルがどうしたとか、合理的しこうのうりょくがどうしたとか、レースで一番乗りしたいとか、そういったことは基本的には人生にはあまり関係が無い。けれども、かんがえてしまう。
ぼくの仕事は、特定の領域ではトップを取る以外には、ほとんど価値がない。だから、なおさら、自分を値踏みし続けることになる。ところが、この2年間、

息子と妻の笑顔と、健康と、その継続に注目せざるをえない。圧倒的な量の日常雑務にまみれた、やすらぎの世界だ。

明日の保育園の準備と、定期検診の予約をして、乾燥機から洗濯物を出しながら、受け取れなかった宅配便の再配達依頼をやっていなかったなと思案しながら、
かつての競争相手が遠いところで勝利を収めるのをぼんやりとやすらかに眺めている。

「ない」の衝撃からはじまる

息子が「これなあに」と言うようになった。
知らないものだけでなく、知っているものについても、確認の意味もあるのか、聞いてくることがままある。「これなあに」の由来は、息子に関しては明らかで、我々が図鑑を読み聞かせるときに、指差しと共に「これなあに」と確認していたからだ。言い方が一緒。親が言うことをオウム返ししたら、いろいろ答えてくれることを学んだのだろう。

ともあれ、子供構文の典型、「これなあに」「なんでxxなの」などのうちのひとつを身に着けたのだなぁと、感慨を覚える。


さらに面白いと思ったのは、「ない」だ。「ない」はかなり初期から息子の言葉のレパートリーに加わった。1歳を過ぎたころには、食べたくないものを表現するときに「ない!」と言っていたように思う。要らない、の短縮形かもしれない。息子はよく用語の前半を省略する。

最近は、ものが無いときにも「ない」と言えるようになった。親や保育園の人々が、探し物をしているところの真似から始まっているのだと思うのだけれど、「きゅうきゅうしゃ、ない」「ぱとかー、ない」と、おもちゃが無いことの不安を主張する。

「(要ら)ない」「無い」は彼にとっては不愉快や不安と強く結びついていて、不機嫌な時に「ないーー!!!」と怒っていたりする。
#わんわんの人形が見つからなくて大泣きしてしまったときは、まだ「無い」と言えなかったなぁ、、



ところで、パルメニデスの命題というものがある。

「あるものはある、ないものはない(あらぬものはあらぬ)」

アリストテレスをはじめとした哲学者が引用するこの文言は、「存在」および「否定」をそれそのもので分離して言及できるという人間の(言語の)特性が、形而上の概念操作を可能にしていることを歴史上はじめて示すものとして、後世の人々が繰り返し評価している。ベーコンやデカルト、近代に必要な思考法を発見しようとした人々の試みの起源は、「ある」「ない」という単語を、言語のまま上手に操作した古代ギリシアにあるのだと。近代の西洋の哲学者は、「存在」を経験から分離させ、言葉として操作できる能力を「知性」と呼んだ。


ぼくは、息子の中では不愉快の述語であろう「ない」が、純粋な論理記号としての「無い」に昇華する瞬間に立ち会えるのだろうか。
いまのところは、そのような論理記号の存在こそが妄想で、おもちゃがない不安や、食べたくはないという欲求こそが「存在」しており、その反射の束を重ねていったときに、帰納的に「ある」と「ない」が妄想として作り上げられているような気がしてならない。

ぼくは日本という国があるように錯覚しているがそれは幻想であることと同じように、「無い」もまた、幻想なんじゃないだろうか。
「無い」の衝撃も、事後的に、錯覚する(発見される)ことによって、スタートしたのではなかろうか。


#最近、息子が2歳の誕生日を迎えた。満開の桜を見ると、きみが生まれたときを思い出します。
##世間はChatGPT狂想曲の様相を呈している。とても楽しいし、ぼくも祭りに参加している。これからはもっと仕事が楽しくなるだろう。と、同時に、息子を見ていると、GPTで起こったとされるパフォーマンスの変曲点は我々が知性と言っていたものが偶像にすぎなかったということを証明しているだけな気もしており、超知性が生まれるというほどのことでもない気もしている。我々は肉体を持っており、「超知性」に我々が求めてしまう全知全能性は、肉体の世界への影響力が必要不可欠だからだ。
###このエントリを書いていて思ったけれど、アケメネス朝ペルシアの真・偽の宗教がパルメニデスの文言に影響を及ぼしているとしたら面白いですね。パルメニデスが言っていたことはペルシアの受け売りで、後世の人々、とくにプラトンあたりの人々が再発見する形で「存在論」化していったのなら、とてもそれっぽい。

ぴかぴか

妻の実家に来ている。
相変わらず、息子の語彙がどんどん増えている。
ぼくたちが食べているモノを指さして、「たい!」というときは、とーちゃん/かーちゃんの食べているモノを自分も食べたい、という意味だ。

彼がご飯を食べているとき、ちょくちょく「ぷかぷか」と言うことがある。
よくわからないので、ぷかぷかだねー、ぷかぷか、それなあに?という反応しか、家ではできていなかった。義理の姉は、保育所に勤めていて、「お皿のご飯を全部食べたとき、ピカピカ!と言って褒める保育園は多い」と教えてくれた。
ぴかぴか、だったのか。
義理の実家で、夕食を囲む。ためしに「ぷかぷか」言っている息子に、「ピカピカだねー。よく食べたね~偉いね~。」というと、息子は満面の笑みで「ピカピカ!」と言い直した。
通じたね、よかったね。ずっと言っててくれたのだね。
通じないもどかしさが、今までも、これからもいっぱいあると思うけれど、どうぞよろしくお願いいたします。