宗教の生み出す本能

「これは俺の物語だ」というセリフはファイナルファンタジーXだったかとおもう。自分の人生を肯定する力強いセリフだった。ドキドキしながらプレイしていた記憶がある。それから20年くらいたった現在、、、ファイナルファンタジーXは歌舞伎になったらしいですね。びっくりしました。
一方で、ぼくはといえば、「ぼくの宗教」に属しており、物語を信じている。それをできるかぎり説明したいと思います。

【世界観】

人間は一皮むくと、こういうことだと思う。

・ご飯をいっぱい食べたい
・じぶんの居場所がほしい
・他人よりそれなりに優位なステータス(性的充足・社会的/金銭的地位・血族的有意性)を得たい

妻は賢くて直感的に上記をわかっているが、ぼくは腹落ちするまで、ずいぶんと長い時間がかかった。人間は歴史の中でずっと上記を繰り返し続けている。*何も進歩はしない* 
法、慣習、技術、資本、そして(恨みを典型例とした)感情が後代に受け継がれるために、進歩があるように見えている。

加えて、人間社会は天才/狂人たる個人や世紀の大発明によって動いているのではなく、人間に制御できない要因で動いている。秦の始皇帝は類を見ない帝国を作ったが、それには温暖化が必須であった。ソクラテス孔子・釈迦などが世界で同時的に出現したのは温暖になって作物の増産・狩猟対象の増加が起き、余剰が発生したからだと考えられている。逆に、ローマ帝国の滅亡応仁の乱といった乱世が起きるのは、限られた人物たちの失政によるというよりは、寒冷化で農作物や獲物が取れなくなって、上記が十分に満たされなくなった時だ。人間社会は、農作物・水産物・建材・冶金の関数であって、それらを支えているのは、人間よりも地球・宇宙の状態である。

縄文時代、温暖化が叫ばれている現在よりもずっと暖かった。恐竜が生きていたころ、両極には氷は無かった。その意味も分からないまま、ぼくたちは、来るべき地球温暖化後の世界におびえている。

人類は制御不可能な大きな流れの中に生きている。GPUクラスタがうなりを上げても偏西風の向きは変わらないし、チベットの氷は溶け続ける。

「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、たまたま偶然成立しているにすぎない。」

主語が大きくなった。
しかし、宗教というのは神話をもっていて、たいていの場合は主語が巨大なものである。ご容赦ください。

さて。ぼくたちは制御不可能な世界の中にいる。
だが、しかし、さりとて、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。ぼくの宗教の前提である。

「うまくやれば世界へ小さな影響を与えることは可能」


これは超越である。

SNSが浸透した私たちの社会は、僕たちがとるに足らない存在であることを可視化する。同じ階級にいる人間は、最終的には大体似たようなキャリアに落ち着くらしい。「自分しかできない」ことなんか当然ないし、運命も恋だって遠くから見たらランダムウォークと区別がつかない。我々は人口動態のモデリング通りに番い増える。脳科学は、ヒトの行動は即時的な反応の束であって、意志というものが生じるのはすでに行動したあとである、という身も蓋もない事実を明らかにした。なにかを考えているようでいて、実質的には外部環境への反応の奴隷であるぼく。制御不可能で徹頭徹尾合理的な世界において、標本のひとつにすぎない自分が「世界に小さな影響を与えられる」などと言えるのだろうか?断言しているぼくは、何らかの超越、宗教を信じているというわけだ。


【超越の源泉】


ぼくの宗教のもつ超越はどこからうまれるのか?

ぼくが生きているからだ。

自分がなんで生きているのか?考えたことはあるだろうか。取り立てて意味なんかない。ぼくの生命。じぶんが生きている理由は、両親のセックスの結果で、母の子宮がそれなりに機能した結果で、糞尿垂れ流しで泣いて母乳を求めることしかできなかった存在を通過しきったからだ。ぼくには、生き残ってしまった、という自覚がある。潤沢な食料と現代医療が無かったら死んでいただろう、という自覚がある。小さいころアレルギー体質で、体も弱かったからだろうか。横で寝ている妹が月に一回死にかけていたからだろうか。小学校の高学年のときには、なんか死にかけたぞ、いま、みたいなヒュッとするような感覚に襲われることがたびたびあった。中学生のときにパラレルワールドに行くゲームをやった。パラレルワールドでは自分は幼いころにおぼれ死んでいて、もういない。自分が幼いころに死んでしまった可能世界。納得感があった。自分は死ぬ蓋然性が高かった存在であり、何かのはずみで生き残ったのである。

自分はなんで生き残ってしまったのか。この分岐をプレイしている理由はなんなのか。

別の分岐では、ぼくはネットの荒らしになっている。別の分岐では、とうの昔に野垂れ死んでいて、息子の顔をみることなどなかっただろう。

「人類社会は壊れやすく、危ういバランスの上で成り立っている、地球・宇宙のいっときの偶然で、たまたま成立しているにすぎない。」

「ぼくの人生はもろく、いつ失われてもおかしくないもので、何かのはずみで生き残っているにすぎない。」

相似形の思考を走らせていく。

遠い昔、誰かが、何かのタイミングで、ちょっとだけ人類の文明の崩壊を食い止める動きをしたとしたら。


【教義】

・平行世界では私/人類社会は死んで/滅亡している
・わたし/じんるいは、わたし/じんるいを生かそうとした何者かによって、たまたま生き残っている

これらの想像力の上に「誰かを生かそうとした名もなき行為者の総和によって、私は・人類は、たまたま偶然にも生き延びる世界線上にある。」という、ぼくの宗教が持っている大いなる仮説、もとい教義がうまれる。

自分はなんで生き残ってしまったのか。*新しい何かのはずみ*を生み出すためである。将来、誰かが、生き残る世界線を構築するためなのである。シンプルにいえば、自分が発見した人類滅亡のシナリオを避けられるようにするのが、たまたま生き残る世界線をプレイする自分たちに課せられたミッションである。わたしたちは制御不可能な世界の中にいるが、うまくやれば小さな影響を与えることは可能である。なぜなら、その小さな影響によって、ぼくという個人が生かされているからである。


人類滅亡を避ける?そもそも、その前提が間違っているのでは。AIによる革命で、人類には明るい未来がくる。自分の内部に湧き上がる享楽に誠実になるのが健全で、短い饗宴を愉しむのが正しい。むろん、そういうシナリオもあるのかもしれない。けれども、現状は。

xx菌がマレーシアの某プランテーションに蔓延したら。yyの奥地に存在する某鉱山を破壊したら。zzにある種子庫を爆破したら。回復不可能なほどの致命的ダメージを人類文明は受けてしまう。「現代」の文明を緩慢に死に追いやることは、簡単なのである。こういった事柄に従事する人間は呆れるほど少なく、おどろくほど金銭的に報われず、そして、なんといっても、全く注目されない。行政は当然ながら重要性には気が付いており保守にあたっているものの、多くのリソースを割くことは(とくに表向きには)無い。バズらず、儲からず、そして寂れている裏路地のようなコミュニティが無数にあり、それらが人類社会を支えている。いや、支えているかも、ほんとうは分からない。危機はまだ起こっておらず、危機は仮説でしかないからだ。



【宗教を生み出す本能】

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ぼくが37年間という短い時間を生きてきて、その人生を正当化したいという本能は、上記のような複雑怪奇な物語を生み出している。ほんとうは、ぼくにやれることは何もない。長い時間、同じような仕事をやっていると、そこに意味を見出してしまうという脳の習性が、「物語」を脳内に住まわしてしまっただけだろう。この物語から自由になったときに、ぼくのほんとうの人生がはじまるのかもしれない。しかし、手元では物語は微速ながら前進している。はずみで世界に影響を与えつつある。
しかも、ときおり、話していると「近い宗教に属している」と思しき人間に出会うこともある。当宗教は、折伏・団結という宗教が本来おこなうべき行為がかけているので、ほんのいっとき、「あぁ、彼らも何かをはずみを作り出しているのだな」と思って祈る程度だ。わたし・彼・彼女のつくりだしたはずみが、その影響がポジティブなものであることを祈るけれど、世界が複雑すぎるためにどうなるかはわからない。取り換え可能な標本が、制御不可能な世界に影響を与えたと断言するのは、フェアではないだろう。
けれども、だからこそ、ぼくはあえて言いたいと思う。「これが俺の物語だ」と。