暴力の人類史

「たたくよ!」と怒りながら息子が手を僕にあげる。怒りの表情と、喜びの表情がまじりあったような、なんとも身に覚えのある顔だ。僕は叱る。「人を殴ってはダメだよ」「なんで殴ろうと思ったの」

先日は、お迎えの時に保育士さんから報告があった。息子は保育園でお友達を叩いてしまったらしい。おもちゃの車の奪い合い。イライラが高ぶるとつい叩いてしまう。家では、人を叩くのはちょっと楽しいぞ、といった表情も見せる。人類は優しさを後天的に学ぶ。むかし、親友が「人間には人間を殺したいという欲望があると思う」と言っていたのを思い出した。
かつて、古代メソポタミア、肥沃な三日月地帯の人々が「神官」という概念を作り出したとき、町は壁に囲まれていなかったという。ウクライナに存在する歴史時代以前の超大規模集落は、ダンバー数をはるかに超える規模で、構造的には平等な”社会”を作っていたと考えられている。新石器時代の農耕地の多くは、柵を伴っていなかったようなのだ。

息子は、怒りを拳にして、どこかにぶつけないといけないときがある。けれども、言って諭すと、少し、がまんができる。息子の倫理観というものが、暴力についての考え方の枠組みが、いままさに構築されつつあるように思う。

先週は、息子は保育園で誰かに噛まれて帰ってきた。泣いたけれど仲直りしたらしい。ほんとはまだまだたくさん喧嘩をしていいぞ、と思いながら、家の玄関の鍵を確認し、息子を抱きしめて僕は眠る。

そして今日の夕方、保育園から電話があった。
「息子さんがお友達を噛みました」