孟子に見るxx育児の問題点

以前のエントリに下記のように書いた.
孟子の「仁」の具体例である.

いけにえに差し出される牛を目の当たりにして哀れに感じ,
目の前には存在しない羊を牛の代わりに使えと指示する君主

ぼくがこの内容を初めて読んだとき,
「いや,羊も可哀想だろ」と思ってしまった.
しかしながら,孟子は続けて

「君子は調理場(家畜の屠殺場)を離れた場所に建てる」

と言う.
むしろ羊が目の前にいないことこそが重要なのだ.
君子は,忍びざる心が無暗に発動しないように気をつけるべきという.
なぜなら,人間は慣れてしまうから.
牛が可哀想という反応が起きなくなる.
仁が失われてしまうのだ.


ところでワンオペ育児である.

ワンオペ育児は無理難題だから。(30歳男性)

ぼくは,この記事に心底共感する.
ぼくの場合は妻は入院しなかったけれど,
産後の1.5カ月くらいの間は介抱が必要なレベルには衰弱していた.
新生児のお世話の合間に,妻のお世話をしていて,
育休がなければ完全に生活が破綻しただろうと感じている.
上記の増田と異なる点は,
ぼくは笑わない新生児もとても可愛く感じた,ということくらいだ.


以前,

ハンス・ヨナスは「責任という原理」で,
生まれたばかりの乳飲み子の鳴き声を聞いたときに
その呼び声に反応してしまうことを責任の起源とした.

と書いた.


乳飲み子の鳴き声は暴力的なほどの「責任感」を駆動する.
我が子が目の前で泣いていると疲れを忘れ,昼夜問わず,他の仕事の犠牲を厭わず,
(上記のエントリの著者のように)尽くそうとしてしまう.
心と体に余裕があるときは,なるほどそれは「仁」と呼ぶべき心の動きかもしれない.


しかし,ワンオペ育児はちょっと状況が違うと思う.
際限なく繰り返し駆動される憐みの心.
乳飲み子と離れがたいのは,一緒に居たいからなのか,
責任感がそうさせているのか,それとも.


ぼくの場合は疲労閾値を超えると,
乳飲み子の呼び声を聞いても
心に去来するのは単純なイライラとなった.
生まれて一か月くらいの赤ん坊は軽く,
ちょっと雑に扱えば容易に死んで泣き止むんだよなぁ...と考えたりしてしまう.

こうなると育児の行動原理は「抗いがたい憐み」ではないだろう.
ヨナスの言い方に従うと「乳飲み子を視野に入れず,表面的な輪郭のみを視野に入れる」行動だ.
憐みからはじまったはずが,正しいことをしている自分を確認するためだけの活動しかできなくなり,
最終的には自分と自分の置かれた状況を呪い始めると思う.



まっとうな精神を維持するために,
ワンオペ育児などするべきではない.



孟子曰く「君子は君子たるために,我が子の本気の呼び声に応えるために,忍びざる心の発動を適切に制御するべき」(意訳)なのだ.