責任という原理

息子と手をつないで公園にいく。息子は好きなだけ歩き回り、転んですりむいて泣き、ハトやスズメに驚き、砂の感触を指で確かめる。公園の遊具で縦横無尽に遊びまわるお兄さんお姉さんの遊びをじっと見つめて、できないながらマネをしたり、そろりと近づいて声をかけたりする。こんなにでかくなるんだなぁと感慨にふける。

子供について、親としての責任という重荷がある、と親友は言ったが、ぼくはあんまりそれを感じたことがない。そもそも責任感がない人間だと自覚しているが、子供というブランド品を維持できるだけの金銭的体力があるという点が大きいのかもしれない。ありがとう、金融市場。ありがとう、ぼくの金銭感覚。そして、サイコロの出目。

20代の時に、缶ジュースを買えないほどの貧相な生活を経験する一方で、外れ値として高級ホテル暮らしやタクシー通勤やコンシェルジュつけたりとか、女と酒と車以外のことをいろいろためした。結局のところ、ぼくがほしい高級な環境というのは、金融市場でちょびっとうまくやるくらいでは全然たりず、マザーズに上場した「成功者」になってもまだたりないと分かってしまった。ぼくは自分の望ましい環境を構築するために、自由の制約とひきかえに他人の金を使うという選択をした。グリードアイランドをプレイするゴンとかキルアの形で「高級な環境」を実現するのが、現時点での最適となっている。20代-30代前半でオカネをしゃかりきに求めたあれはなんだったのか。結果として、子供に課金するだけの資金はいまのところ残っているというわけである。

ところが、子供が外に出始めると、無責任なぼくでも「責任」を感じざるをえない日々が増えてきた。息子は何も知らないので、たぶん公道に放り出されたら、ものの数分で死ぬんじゃないかと思う。じっさい、公園から猛スピードで公道に飛び出るように歩いていくことも多々ある。いままでもミルクをあげそびれたら死ぬんじゃないかという不安と戦ったりしたが、息子が外を歩いて死ぬ可能性は、少し質的に異なっている気がする。*社会についてある程度理解しているぼくが付いていながら、息子が死んでしまった*といった未来を避けるゲームがはじまっている。おそらく、このゲームをプレイするときのモチベーションは、「責任感」といっても差し支えない気がする。自分の安全への不注意が理由であのかわいい息子がこの世からいなくなってしまうなんて、たぶん耐えられそうにない。

子供をひきつれているとあらゆる中年差別をまぬかれるような、あらゆる義務から逃れられるような、そんな気持ちになれる。特殊な護符のようなアイテムを身につけたい欲望。妻より育児やってますよアピールしたいという欲望。息子の世界がひろがっていくのは、とてもうれしい。彼にもっと驚きと興奮を与えたいという気持ち。そのどれも、この責任という原理を基礎づけてくれない気がする。
公的空間における息子の生存確率は、主観的には、ぼくのそして妻の、きわめて俗な安全についての理解と実践にかかっている。息子の代わりに、ぼくが事故のダメージを引き受けられたらいいのにね。そうしたら、責任を果たせると断言するのはおそらく容易だろう。