あなたがそこで泣く理由

【背中スイッチ(せなかすいっち)】
赤ん坊がベッドに寝かされると,背中のスイッチが押されたかのように急に泣き出すこと.抱っこしてやるか授乳をはじめないと泣き止まない.授乳直後や夜はその限りではない.


ぼくも実際に経験した.
面白いくらいに「スイッチ」のようだった.育休のあいだ,背中スイッチのおかげで,息子はベッドで寝ている時間よりも抱っこされて寝ている時間のほうが多かった(もちろん昼間の話).おかげで,左手がジンジンに痺れてしまって,育休があけてもそのしびれが抜けなくなってしまった.育休怖い.

育休に入る前に,背中スイッチに気をつけろ,という言葉を先輩たちから何度もいただいた.割と普遍的な現象らしく,抱いてると勘違いさせるように(スイッチを押さないように)ベッドに寝かせるコツがネットにいくつも開示されている.
これはいったいなんなのだろうか.

ぼくは,どうしても人類の子育てについて思いをはせてしまう.
背中スイッチの存在は,明らかに我々のライフスタイルと相性が悪すぎるからだ.

赤ん坊を横に寝かせたら反射的に泣くならば
・世話をしている両親が無駄に疲れてしまう
・人間の子供はサルと違って親にしがみつけないから,抱っこは赤ん坊の方も不安定でしんどいはず
・そもそも,外敵に場所を知らせるようなものである
なんで背中スイッチなんてものがあるのだろうか?

「親の子供への親密感の形成には,それなりの接触が必要であるから」
とアタッチメントで説明を試みるのもよい.しかし,だとしても,外敵に場所を知らせるような真似をどうして行うのだろうか.


状況を理解するために,
ぼくは考えを逆にしてみた.
「赤ん坊は抱かれてゆらゆら動いていると泣きにくくなる」性質をもつのではないかということだ.
ここからは息子1名限定の観察だからN=1だ.
ぼくの息子はタクシーに乗ると,赤信号で泣く.青信号で車が動き出すとすぐに泣き止む.ベビーカーで散歩に行くと,すぐ寝てしまう.抱いて歩いているときの睡眠は結構すごくて,授乳タイミングを過ぎてもそのまま寝ているときが多い.これだけ寝てくれるなら,腕が痺れようがなんだろうが,ずっと抱いてよう.



そう,ずっと抱いている.



論理に飛躍があるのは承知しているが,わたしたち人類は,赤ん坊をずっと抱いていたのではないだろうか?と思いいたるようになった.人間という種がアフリカ大陸に出現して,20万年経過したとされるが,そのうち19万年は定住の痕跡は認められていないらしい.5万年前に各大陸に散っていったものの,その遺伝子は驚くほど変わっていない.
背中スイッチの獲得は,定住より起源が古かったらどうだろう.


火の使用,イコンの作製,会話,これらの人間を特徴づける性質は,ヨーロッパにおける「先住民」である,ホモ・ネアンデルターレンシスも行っていたことが明らかになっている.アジアの先住民ホモ・エレクトゥスも火は使用していたらしい.「火で森を切り開く」「宗教的な儀式」はおそらくホモ・サピエンスの発明ではなくて,諸先輩方をパクっただけの可能性が高い.
では,ホモ・サピエンスを特徴づける性質は何か.
おそろしく戦争に強かったこと,めちゃくちゃよく歩いたこと.骨を分析する限り,長い距離を歩かせたら,エレクトゥスやネアンデルターレンシスには負けないようだ.ジェームズ・スコットの「ゾミア」には,ほぼ丸一日歩きつづけて獲物を捕らえる「野蛮人」の生活様式が克明に記されている.



太古,わたしたちは,ずっと赤ん坊を抱きかかえながら歩き続けていた.
群れの中にはカップルが複数いて,集団で育児を行っていた.
昼間は両親だけではなく,多数の人員が交代で子供を抱いて移動した.
移動は人類の強みだから「抱かれて移動するときは積極的に黙る赤ん坊」が生き残った.
安全が確保される場所がみつかると授乳,睡眠が行われた.安全な場所では,お腹が減ったよと泣いてOK.
乳飲み子にとって,授乳や睡眠以外のタイミングで地面に置かれることは,蛇や蟻などの餌食になる可能性,あるいは,群れが自分を連れていけないほどに消耗していることを意味した.
そんなときでも泣いて「自分を連れてって」と主張できる赤ん坊が生き残った.
「背中スイッチを持たない赤ん坊は死ぬ」ような,強烈な選択圧がかかっていたのではないだろうか?



この妄想は暫定解としては腑に落ちた.
絶え間ない移動.
ぼくは絶対やってらんないけれど,文明が生まれてもそこそこ続いていた.
騎馬遊牧民の王権.匈奴・スキタイ・エフタル・鮮卑・テュルク・モンゴル.
アフリカを出たころのご先祖様に比べれば,一カ所に留まる気質はだいぶ強くなっているけれど,漢・ギリシャ・ローマなどの「都会人」に比べればずっと背中スイッチに悩まされない生活を送っていたことだろう.



子供の泣き声を聞きながら,20万年前の人類のライフスタイルに思いをはせて,
ごめんよ,この世界線ではベッドで寝ても安全だから,泣き止んでおくれ.と息子の本能に声がけするなどしている.声がけしても当然泣き止まないので,抱く.息子は心底ほっとしたような顔をする.
「あなたが消耗すると結果的に私が大変になるから抱っこばかりしないで」と妻が怒る.
ぼくたちはどうして,集団育児をやめ,定住を選んでいるんだろう,と自分では修正不能な社会のバグを嘆きながら,息子とくっついていたいので両腕の筋肉を酷使している.